小池昌代『怪訝山』

 『転生回遊女』と比べれば、いまのところ、やっぱり小池昌代は短編が良い。「木を取る人」(二〇〇四)、「あふあふあふ」(二〇〇六)、「怪訝山」(二〇〇八)の三篇が収録され、どれも良い。
 菅野昭正は文芸時評で「木を取る人」を好意的に評価していた(『変容する文学のなかで』)。中沢けいは「あふあふあふ」を〇六年のベスト3に選んでいた(読売新聞、06/12/19)。後者の主人公は七十七歳の老人で、妻に先立たれて五年になる。とても真面目な人で、妻は主人公が「きれいな人」であることを理解していた。ただ、周囲はそんな彼を疑ってかかる。主人公は強い抗議もしない。全体として淡々と生きている。もちろん鬱屈はたまる。そして、破綻のような、救いのような結末がやってくる。
 読み直すなら、私は「あふあふあふ」を選ぶだろう。けど、一冊を代表する作品として華のあるのは「怪訝山」であるのは間違い無い。仕事に疲れた男が、伊豆に旅してなじみの女の居る宿に泊まる。不気味なまでに自堕落な女だが、それだけに主人公は安心して仕事も忘れ、彼女の肉体に埋没できる。この女に「山」のイメージが重なるのだ。これが小説を次第に不条理の世界に変えてゆく。「本」五月号で作者自身が結末のネタバレになるのも気にせず解説している。

 女たちのからだには周期的な生理があり、やがてそれにも終わりが来て閉経となる。「怪訝山」にも、それらしき時期を迎えた、コマコという獣のような女が登場する。閉経は、ひとつの山が完結するようなこと。コマコは、まさに完結した山である。イナモリという男がコマコと交わったあと、コマコは粘液の浸み跡になって消滅してしまう。作者もよく説明できないが、コマコのなかに入ったことで、コマコが裏返り、肥大化した山となって、小説全体が、コマコという山のなかへ入ってしまう、だからコマコが消えてしまうのだ、というふうに読んでみることもできるだろう。(「奇っ怪な土の盛り上がり」)

 東直子が「群像」六月号の書評で、「三つの作品には、いずれも糸のように孤独な存在の、偶然にして必然の絡み合いが描かれている。それぞれの存在の中で、熾火のように抱えている性的希求が物語を突き動す」と述べている。ネットでも読める。「性的希求」の指摘は正しい。他の小池作品にも通ずる。