古井由吉「生垣の女たち」(『やすらい花』)再読

 『やすらい花』から「生垣の女たち」を読み返した。この短編集について、「新潮」六月号で諏訪哲史が、「古井氏の最近の小説はどれも「連作」と銘打たれているにもかかわらず、僕には、各々が全く趣向の異なる独立した作品にみえて仕方がない」と述べている。間違ってはいないと思う。レベルの高いことを彼は言おうとしている。対して、私がいま書きたいのは、きっとあんまり当たり前で誰も指摘しないようなことだ。連作を一貫したテーマは時間である。記憶や身体そして語りにおける時間を小説として描くことだ。
 たとえば、老人が若者にメモを託す。そこには自分の死後の処置が書かれている。そのうち老人は死ぬ。若者はメモの指示に従い、老女と連絡を取る。老女が現れる。ところが、小説は次の順序で語られる。1、老女の登場。2、老人のメモ。3、老人の死。
 読者にはわけもわからぬ老女がいきなり現れるのだ。年表のような時間進行ではなく、古井由吉は回想の気分や感覚の時間に従って書くのである。最後の方で老女が言う、「年寄りは今を見ていても、どうかすると、今も昔も、先のことも、つい見境がつかなくなって」。これがこの作品の主題を言い当てている。たぶん、連作全体の象徴でもあろう。これだけでは凡庸だ。けど、前にふれた大江健三郎との対談で時間と小説について深い応酬があった。それと関連するに違いない。そうなると私の手に負えない。「すごいなあ」と三嘆するのみである。