「文学界」6月号「「私」の生まれる場所」千葉一幹

 川上未映子『ヘヴン』論である。副題は「『ヘヴン』あるいは社会学の臨界点としての文学」だ。意図は明瞭だ。現代批評における「社会学の優位」への対抗である。この点にしぼって紹介しておく。
 「『ヘヴン』はいじめを主題にした小説である」という。あたりまえのようでいて、他の論者と比較すると意外に新鮮だ。まづ、現代のいぢめが社会学的に検討される。昔と異なって、「いじめの対象になる者はその場のノリによって決定されるのであり、つまりは偶然的なものだ」。いぢめる相手は誰でもいいのだ。この状況をよく描いた例として、重松清「ワニとハブとひょうたん池で」が挙げられる。「しかし、それでも、この小説は、今でも日本のどこかで起きているだろう様々ないじめの一例のようにしか読めない。いじめと総称される一般的事態の個別例のように読めてしまう」。この小説で、いぢめの起こる社会システムはよくわかる。

 だが、社会システム論的観点からいじめについて考えることは、「いま、ここ」でいじめを受けている人にとって、救済どころか慰めにすらならない。(略)こうした社会システム論的説明は、いじめられる者にその状況についての認識をもたらしても、そこから抜け出す具体的方法を提示するものではない。そこに問題がある。(略)なぜ、ほかの誰かでなく、「私」であらねばならないのか。いじめられる人間が欲するのは、それの答えである。

 これは社会学の臨界点に現れる文学の問いであり、「ワニとハブとひょうたん池で」に欠け、『ヘヴン』が有する問題だ、と千葉は考える。さて、『ヘヴン』の主人公「僕」は斜視のゆえにいぢめられている、と読者は思う。「僕」自身もそうだった。しかし、「僕」と百瀬との対話でそれが否定される。百瀬は、いぢめの標的の選定について、「べつに君じゃなくたって全然いいんだよ。誰でもいいの」と言う。だから、斜視を治してもいぢめられ続ける可能性が消えるわけではない。

 ここで「僕」は、いじめを抜け出す可能性を否定されただけでなく、その意味すら喪失したことになる。
 斜視であること。それは「僕」にとっていじめの原因として忌むべきものであったとしても、同時にそれは他の者たちから自分を差異化するものであり、アイデンティティの基盤でもあった。しかし、斜視はいじめの原因ではないと言われたことで「僕」はそのアイデンティティの縁すら失ったことになる。「僕」が「僕」であることの根拠を同時に剥奪されたのだ。

 ならば、なぜこの僕がいぢめられなければならないのか。たしかにこの問いに社会学者のいぢめ分析は「偶然そうなったんです」としか答えられない。だからこそ「なぜ」と問うているのに。これが『ヘヴン』の文学的な問いである。全二七ページの評論のうち半分くらいかけて、千葉はそれを説く。ここまでだけで意図の充分成功した評論だろう。
 ただ、これ以降結論にいたる後半部は陳腐に思えた。結論だけ簡単に述べておくと、最後の公園の場面での、「僕」は「僕」でしかない、という認識が主人公を救済と解放に導いた、とされる。『死霊』の作者が聞いたらのけぞること間違いない。ほか、ニーチェやらカントやらフェティシズムやらオイディプスやら永井均やら中村文則『掏摸』やらヨブ記やらアブラハムやらアガンベンやら『1Q84』やら、気になったことを片っぱしからごちゃまぜに盛り込んだのが下品で幼稚だった。それでも、コジマについて掘り下げてくれるなど、読み甲斐のある『ヘヴン』論であった。