十年前の本を読んだ。

 こんなものあいつに読まれたら恥ずかしい、そんなあいつの役を担当する者が居なくなってしまった、おかげでみんなくだらないものを平気で書けるようになった、という意味のことをどこかで蓮實重彦が言っていた。いま手元の本をざっと探して見つからなかった。近いのを引いておこう、三島由紀夫は「同時代の作家に対して睨みをきかせていた。だから同時代の作家たちは三島にけなされることが、批評家にけなされることよりこわかったと思う」(『近代日本の批評2』)。そんな抑圧の機能を文壇に取り戻そう、それを俺がやる、と宣言していたのが十年前の福田和也だった。もちろん役不足に終わったが、『作家の値うち』を残してくれた。九か月をかけて、七百冊の小説を読みそのうち六百冊のひとつひとつにコメントを付して採点した本である。
 酷評してるほど笑える。たとえば、池澤夏樹については、「クールな文章で、株価捜査や環境問題やアニミズムなど気の利いたことを書く。常に気が利いているが、ただそれだけのことである。作家というより文化人の渡世において卓越しており、その点では見習うべき点があるかもしれない」。島田雅彦『天国が降ってくる』は五六点で、「フェイク・ヒストリーを前面に出した疑似自伝小説だが、結末も含めて安易な辻褄あわせが横行している。しかしその安易さが自画像としてある種の現実感をもちえているのが困りものである」。欠点は激賞する場合で、しばしば評言が、空疎だったり、的を外してしまうことだ。コラムもいくつかあって、本書を出すに至る危機感は伝わる。

 経済的な豊かさの下で、純文学は「文化」として手厚い保護の下に置かれ、大出版社は不採算を承知で大冊の文芸誌を出し、そこでは社会保障のように誰も読まない中堅・大家の連載が、ローテーションを組んで続けられている。地方の文学賞などの大量の設立は、作家たちに審査員としての収入をもたらし、原稿料への依存を弱めている。このような状況を肯定するならば、純文学に未来などないだろう。

 十年前の雑誌を読んでるといろんな人がこの本を話題にしてるので読んだ次第である。なお姉妹編に『『作家の値うち』の使い方』がある。『作家の値うち』で徹底的にこきおろされた船戸与一がほとんど本書へのあてつけのようにして直木賞を与えられた件など、反響の一端をうかがえる。この時の直木賞選考委員の、井上ひさし林真理子五木寛之渡辺淳一はそろってこの本で低い点数をつけられた面々であった。池澤夏樹にせよ、そういう人たちが直木賞芥川賞の委員に集まる。