柄谷行人『世界史の構造』(7)「第三部第四章」

 交換様式ABCが互いに支え合う、国家と資本と国民の切っても切れない輪を崩すには、交換様式Dが必要だと柄谷行人は考える。それは普遍宗教が受け持ってきた。しかし、宗教の形をとっていては、そのうちそれは国家のシステムに取り込まれる。(5)で述べた、普遍宗教のキリスト教世界宗教キリスト教になったように。宗教を批判して交換様式Dを求めなければならない。まづカント、そしてプルードンがそれを考えた。要点だけ言えば、(1)で述べたように交換様式Dは交換様式Aの高次元の回復だ。交換様式Aが共同体内部の互酬であるのに対し、交換様式BCを経た交換様式Dは共同体外部の互酬なのである。国家と資本に抑圧されてきた交換様式Aの回帰だ、と柄谷は言う。抑圧されたものの回帰に関しては(5)でふれた。
 交換様式Dの理念をカントはこう述べた、「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」。簡単に言えば、自分が自由であるだけでなく、他人も自由な存在として扱え。資本家の自由と対比させればわかる。労働者は自分の労働力を商品として自由な意志によって資本家に売る。資本家は貨幣を使って自由な意志によってそれを買う。自由とはいえ、商品と貨幣では貨幣を持つ者が有利だ。かくて、資本家は労働者の自由を自分の利益の手段として扱う。対して、カントの言う自由の相互性は自由の互酬である。そうせねばならない。それは抑圧されてきた交換様式Aの回帰としてわれわれに強迫的に迫ってくるものだ。交換様式Dは仮象である。ただし、それ無しでは生きられないような仮象である。たとえば、「同一の自己がある」という仮象が無いと人は統合失調症になってしまうように。
 プルードンは交換様式Dを宗教ではなく経済において考えた。労働者と資本家のような不平等を生まない経済システムをもたらす経済革命を目指した。『世界史の構造』では、協同組合工場においてそれが実現される、と述べている。協同組合工場では賃労働が存在しない。労働者自身が経営者だからだ。そこでの工場長と部下の関係は、資本家と労働者の関係とは異なる。工場長は労働者によって選任されるからだ。そこでの関係は互酬的なものになるだろう。労働者は工場長に従うが、工場長も労働者に従わねばならない。
 協同組合工場には大きな欠点がある。みんな平等だから、リストラもできないだろうし、優秀な技術者を高給で引き抜くこともできない。これでは資本主義の競争に生き残れるわけがないのである。だから協同組合工場実現のためには資本主義を無効にせねばならない。「切っても切れない輪」があるゆえ、当然、国家も無効にせねばならない。また、交換様式Dは共同体や国家を超えるゆえ、ひとつの国家の内部で実現しても意味は無い。すると、ひとつの結論が導かれる。この経済革命は世界同時革命でなければならない。少なくとも先進国諸国での同時革命でなければならない。もちろん、国民も国民ではない、世界共和国の世界市民となる。
 感想。
 理論的には最も重要な章だろう。
 プルードンについて、『トランスクリティーク』では市民通貨につながる面が強調されていたが、『世界史の構造』では協同組合に軸が移動している。また、それ無しでは生きられないような仮象、とは村上春樹が擁護する物語と重なるだろう。物語無しで人は生きていけない。交換様式Dの理念とはまさにそんな物語である。柄谷行人はかつての物語批判の思想家ではなくなった。本人もそれは自覚して書いている。
 プルードンについては、ルソーの一般意志と対比させている。それは柄谷と東浩紀「一般意志2・0」との対比にも通じるかもしれない。柄谷から引用しておく。「ルソーは個々人の意志を越えた「一般意志」をもってきて、これによってすべてを基礎づける。しかし、一般意志は個々人の意志を国家に従属させるものでしかない。ルソーのいう社会契約では、個々人は事実上存在していないのである」。
 フロイトの「抑圧されたものの回帰」を使った説明が相変わらずよくわからない。抑圧あってこその回帰ではないのか。国家資本国民の抑圧が無効になった後の交換様式Dは虚しくないか。つまり、国家資本国民に対する批評のようなものが交換様式Dであって、それは国家資本国民が消えては意味を持たなくなってしまうのではないか。世界共和国が成立した瞬間、カントの永遠平和が実現されるどころか、崩壊が始まるのではないか。
 交換様式Aについて、当初から素朴な疑問があって、それは残ったままだ。ユダヤ人の交換様式Aと日本人の交換様式Aが同じものであるわけがなかろう。すると、交換様式Dも異なるはずだ。その差異はとうとう論じられないのか。漢文学と英文学をひとくくりにしてしまう文学に異議を唱えて差異にこだわるのが柄谷行人の思想ではなかったか。