読売文学賞、高村薫『太陽を曳く馬』(その2)

 禅については秋月龍ミンの本を私は好んで読んだ。坐禅して解脱した瞬間の体験談に関して、その多くは同じ姿勢を続けて疲労したあまりの異常心理にすぎない、と彼は述べている。しかし、体験しか無い者は異常心理と神秘体験を区別する基準を持ってない。『太陽を曳く馬』を読んで思ったのは、そのあたりが禅とオウムの違いなんだろうな、ということだ。オウムの本を私は二冊読んだ。馬鹿馬鹿しい限りである。それを思想として扱った高村薫に感心した。要点は「その1」に述べたとおりである。私が理解と同感のできた部分を引用しておこう。

 彼らが何と言って若者たちを勧誘したか、思い出してみよ。あなたも私も、誰でも修業すれば超能力が身につくと言ったのだ。(略)然るに、たとえば大日如来と一体化するという密教の行法の、その直接的かつ絶対的な身体体験が、いわゆる滅尽定の「空」をさらに一歩超え出てゆくものであるという一点において神秘思想であるのに対して、オウムのヨーガ的な解脱にはその一歩はない。

 「彼らのいう解脱とは超能力のことだと考えざるを得ない説法もいくつかある」というのは私も同感だ。私の読んだ本には、オウムの修行によって超能力を得れば、核戦争の放射能も跳ね返して生き延びられる、と書いてあった。だから、次の一節にも納得できる。

 宗教は必ず人間の生物的死の周りをめぐる言辞ではあります。然るに、オウムにそうした死への視線はあるか。彼らが目指した神秘体験やニルヴァーナの境地はいずれも現世拒否の表明ではあるが、あくまで今生で達するだけで、その眼差しは死にも、また死を通り抜けた彼岸にも届いていないと言うほかない。(略)すなわち、オウムが目指した不死はほんとうに不死と言えるだろうか、と。正確にはこれは不死ではなく、たんに究極の生き残りということではないか、と。不死には決定的に死が張りついているが、生き残りはどこまでも生き残りであり、生は生であって、そこで死は、あくまで生き残る価値のない他者の死に留まり続けるのではないか。

 すると、宗教としてのオウムはどうか、結論は見えてくる。「初期にはヨーガの神秘体験という聖があったが、その後それを捨てて今生での飽くなき生存を追求し始めたとき、もはや生と俗との往復運動はなかった。いくら終末思想を掲げても、そこには精神が直に触れるものとしての聖なるものはすでになかった」。
 最後に、素朴な疑問を。以下は「犯人」や「謎解き」に関するネタバレをふくむ。
 寺の門の鍵を誰が開けたか、が問題となった。結末近くで明らかになる。末永は合鍵を渡されていたので、自分で開けて外へ出た。ならば、末永は合鍵を持ったまま死んだはずだ。そう考えるのが自然だろう。死体を調べればすぐわかったはずのことだ。少なくとも、それに関する推理を登場人物の誰かがすべきだ。本がいま手元に無いから、確かめることができないのだけど。