読売文学賞、高村薫『太陽を曳く馬』(その1)

 東京の喧噪の真ん中で托鉢と坐禅にあけくれる曹洞宗の寺で、修行僧が交通事故で死んでしまう。この僧の監督責任を寺の者に問えるか。主人公は刑事である。作者の愛読者なら合田雄一郎という名は御存知のはずだ。捜査にあたって『正法眼蔵』を読んでおくという彼の実直さは、仕事としてよりも、彼の個人的な関心や因縁が望んだのではないか。それによって小説は観念的な色合いを強めてゆく。宗教や現代美術、精神分析をめぐる議論がかなりの分量を占めた。『バガヴァット・ギーター』と、できやよいとラカンが語られる刑事小説というのは滅多に無かろう。ただ、『死霊』のように個性的な登場人物がその人物特有の特異な思想を告白する、というわけではない。『太陽を曳く馬』の議論は、一人の解説者で済むようなことを、たくさんの登場人物のセリフに分割しただけだ。一人の解説者とは高村薫に他ならない。議論に関しては彼女の評論として私は読んだ。そして、議論以外にあまり読みどころの無い小説だと思う。

 私のような一般人がふつうに『正法眼蔵』を読みますと、途中から道元Aと道元Bがいるような気がしてきます。たとえば因果を超越する道元Aと、因果を究める道元B。余計な知見を捨ててひたすら坐禅すれば誰でも得道すると説く一切皆成の道元Aと、仏祖正伝を聞法し習学するのが菩提への道だと説く兼学の道元Bです。

 『正法眼蔵』を読んだ主人公はこんな感想を僧に述べた。僧の答は、「『正法眼蔵』はそもそも七十五巻本と十二巻本の二種類に分かれておりまして、あなたの仰った道元Aは前者、道元Bは後者ということになりましょう」「若い頃の道元と晩年の道元では、大きく考えが変化したということであり、その結果がAとBになって今日に伝わっているというだけのことである」。道元ABの話は何度も現れる。
 事故死の僧の名は末永という。彼はオウム真理教の元信者だった。オウムをめぐる議論がこの小説の白眉だ。しかも、オウムの事件の真相の分析ではなく、オウムの教義をめぐる議論である。そこが他の作家や評論家のオウム論とはまったく違う。ヨーガの瞑想の神秘体験に淫してそれを絶対視した点で、高村はオウムを批判しているようだ。つまり、道元で言えば、Bの部分が欠けており、AとBの葛藤が無い。オウムはそこが薄っぺらだ。私はそう読んだ。