柄谷行人『世界史の構造』(8)「第四部」

 世界史は覇権を持つ国が存在する時期としない時期の交代の繰り返しだった。しない時期を帝国主義的な時代と呼ぼう。各国が覇権を争う時代である。一九九〇年以降はアメリカの支配権が崩れて帝国主義的な時期に入っている。そして、(6)で述べたように資本主義の限界が近づいている。すると、今回の帝国主義の時代は新たな覇権国家の誕生で終わるよりは、戦争につながる可能性が高い。それにどう抵抗するか。(7)に述べた世界同時革命の試みはこれまで何度も失敗してきた。各国の事情がさまざまで、それらを統一した運動を形成できなかったからである。
 (7)で述べたカントの世界共和国の実現はどうだろう。それに至る第一歩として諸国家連邦が考えられる。具体的にはこれまでにも国際連盟国際連合があった。そしてそれは世界戦争を防げなかった。しかし、ふたつの世界大戦を経て国際連盟国際連合が形成されたように、世界戦争はあらたな国際連合を生む。「諸国家の戦争を抑えるのは(略)諸国家間の戦争を通して形成された諸国家連邦なのである」。後期のフロイトが考えたように、人間の攻撃性が内向した超自我が攻撃性を抑止する力になるだろう。
 先進国と途上国との経済格差に由来する戦争は、経済格差を消すことでしか無くならない。現在行われている先進国による途上国への経済援助は、王が民の富を略取して橋や病院を建設する交換様式Bと変わらず、格差は消えることが無い。諸国家連邦の互酬が求められる。すなわち、諸国家間に交換様式Aを回復する交換様式Dの確立である。この場合、先進国から贈与されるのは、たとえば生産のための技術知識、知的所有である。
 その実現のためには交換様式BCによって規定されている国際連合のシステムを交換様式Dに向けて変えるべきだ。それは容易なことではないが、交換様式ABCが執拗に存在するということは、交換様式Dだって決して消えることはない、ということでもある。そうして世界同時革命と同等の成果を漸進的に実現してゆこう。
 感想。 NAMが始まった時、私はたいへん興奮したが参加はしなかった。この組織は人間関係のレベルで崩壊する気がしたからである。事実そうなった。思うに、これは柄谷の理論の欠陥である。もともと柄谷の言う「他者」は「赤の他人」に近い。わけのわからない対象、信用しても意味の無い相手、それが他者だ。組織や一族を守る者同士の信頼や愛において関わる他者、という発想が無い。柄谷理論によるNAMの結束が弱いのは当然だろう。
 交換様式Aがおかしい。これを交換様式として考えるのは、柄谷の他者論の欠陥だろう。問題があっても共同体を維持しようとする働きが交換には欠けている。交換様式Aを中心に成り立つ部族や家族はNAMと同じように人間関係のレベルで崩壊するだろう。ケンカひとつで離散する家族を私は連想する。
 交換様式BCの分析は正しいように思った。それを越える交換様式Dの発想も悪くない。だから問題は、交換様式Dにおいて回復される交換様式Aの内実ということになろう。たぶんそれが柄谷の次の思想である。それって社会学者よりは文学者の仕事のような気がしてきた。