「考える人」夏号、「村上春樹ロングインタビュー」(その2)

 1日目に言われたとおりに『1Q84』Book3 をゆっくり読み返してる。たしかにあんまり嫌うのは悪い気がしてきた。インタヴューは2日目と3日目も読んだ。主に、前者は生い立ちや読書経験について、後者はアメリカで成功する経緯について。どちらも良いことを言っている。やっぱり春樹ファン必読だ。長いので今回も断片的に気に入ったことを。まづ2日目から。

 僕の個人的な定義によれば、自己というのは、自我をすっぽり呑み込んだ存在なわけです。そこから自我だけを取り出すと、さあプレパラートに乗せてレンズで見てみましょう、という感じになってしまう。でも自己のなかに埋め込まれると、自我は水槽に入れられた金魚のように、自由にひれを動かして動きまわります。僕に興味があるのは、そういう意味合いでの包括的な自己です。

 一九世紀にはプレパラートに乗せる手続きが不要だった。「物語が物語として素直に自律的に流れ」、自己まるごとで自我を書けた。春樹自身としてもそんな小説を目指している。二〇世紀には「自己のなかから自我が抜けだして表面に浮かび上がってくる」。そうなると自我を描いて物語を自然に流すのは難しい。資本主義によって強まった欲望のせいだ。

 ところが二〇世紀も終わって二一世紀になって自我の扱いに関して、そこでまたひとつの組みかえが新しく起こっているのではないかと、感じるところがあります。(略)モダンがあって、ポストモダンがあって、そのポストモダンがトラックを一周して、ひとつの局面はもう終わりを告げたんじゃないか、そういう気がしています。(略)「神話の再創成」みたいなことがあるいはキーワードになるんじゃないかと、個人的には漠然と考えているのです。

 3日目にも大事な話をいろいろしてる。それをあえて省いて、最後の方の簡単な一言を書き写しておく。彼の短編をいくつか読み返す時のヒントになりそうな気がしたから。それにちょっと真似したい面もある。

 待っていれば必ず書くべきときが来るから、じっと待つのが僕の仕事だと思っています。翻訳したりエッセイを書いたりしながら待機していて、そのときが来たと感じたら、ほかのことは全部捨てて小説に取りかかる。(略)チャンドラーもほぼ同じことを言っているんです。とにかく一日まったく書くことがなくても、書かなくてもいいから机の前に一時間座っていなさい、と彼は言っています。その間は、本を読んだり、クロスワードパズルをしたりしていては駄目だと。ただじっとしていなさい。何を考えていてもいい。ただじっとしていなさいと、書簡集のなかで言っています。

 私は仕事をする気がしなかったり、書くことが無かったりすると、くだらないことを始める。三〇分で済む作業の前に二時間の無駄が必要なたちだ。たとえば、先月からなぜか十年ぶりにフリーセルを再開して、いま一七三連勝である。