前島賢『セカイ系とは何か』

 セカイ系という言葉を知ったのは最近である。社会的な媒介項を抜いて自分と世界が直結してしまう、という点で、連想したのは、タルコフスキーとか志賀直哉とかだ。そんなにはずしてないと思う。調べたり検索したりしたら、言及してる人がすでにあった。最近の純文学では、伊井直行『ポケットの中のレワニワ』とか高橋源一郎『「悪」と戦う』 なんかもその気がある。特に前者は、女が世界と戦って、男が無力感をかかえ、さらに超自然っぽい解決が図られたりするあたり、なおさらだ。社会的な方向が無いので、世界と関わる際に超自然の力に頼るのは自然なことだろう。もうひとつ、私はテロも連想する。社会的な手続きを踏まず、超自然の力も借りず、世界に進出するにはきっと暴力しか無い。東浩紀の『クォンタム・ファミリーズ』や「クリュセの魚」(『NOVA2』)にテロリストが登場するのは、作者の感性がセカイ系に近いのを思わせる。特に後者は、女が世界と戦って、男が無力感をかかえ、という定型も踏んでいる。また、世界と直結する感覚の流行というのは、ネットの普及を抜きにしては考えられないだろう。秋葉原の通り魔が浮かんだ。
 考え始めたら、こうしてとめどなく広がってしまうセカイ系だ。前島賢セカイ系とは何か』は、まづ「セカイ系」という語の使われ始めた起源に帰って考え、とめどない広がりを停止した。最初は「新世紀エヴァンゲリオン」の特徴を言った言葉だったとのこと。そうしてから、この語が高橋しん最終兵器彼女』や新海誠ほしのこえ」、秋山瑞人イリヤの空、UFOの夏』といったセカイ系の代表作と目される作品に適応されてゆく経過をたどり、さらにそれが谷川流涼宮ハルヒの憂鬱』などを経て拡散や変容や終息するさまを分析した。とめどない広がりを整理して見せたのである。その方略が成功しており、本書は副題どおり「ポスト・エヴァのオタク史」にもなっている。その方針が最後の数十ページになって崩れて、著者の個人的な論点のこだわりにのめりこんでゆくところが退屈だった。でも、大きな欠点はそれくらいで、若い著者の将来に私は期待する。
 思ったのは、この本とは別のアプローチもあるだろう、ということだ。四方田犬彦は女子高生が黄色い声を上げる「かわいい」を『枕草子』にまでさかのぼって考えた。同様、セカイ系を伝統的な感性からさぐることは可能だろう。「エヴァ」だけで流行の説明がつくものではないし、また、伝統からの考察は「エヴァ」の理解も深めるだろう。そして、セカイ系の流行は終息したようでいて、冒頭でも触れたように、純文学ではいまさら波が来かかってるようにも見える。オタク史だけで収めるのはもったいない。「内向の世代」以降、ほんとうに久々に定着する文学史用語になりうる。