クリストファー・ノーラン「インセプション」

 今敏が亡くなったと聞いて、「インセプション」を見たくなった。三時間近いということで敬遠していたのだけど、他人の夢に侵入する映画という点で、それを見ることが「パプリカ」の監督をしのぶよすがになるような気がした。三時間はあっという間であった。見終わった後に何も残らぬ不満はあった。
 夢の中で夢を見ると、それは2階の夢ということになる。2階の夢で見る夢は3階だ。それらの階層を行ったり来たりしてるうちに、どれが現実で何が何階かが混乱してくる。『ゲーデルエッシャー・バッハ』にそんな話があったような。「インセプション」はそれを思い出させる映画だった。
 2階の夢と3階の夢では、後者のほうがより深層意識に近くなっている。そんなもんだろうか。何より、夢の中の夢って、階層のイメージでとらえていいもんだろうか。まあ、そう設定したおかげで、欧米的な理屈っぽさによるわかりやすさが生じたのは認める。
 そんな夢に関する理屈より、夢の世界の不思議の造型に工夫して欲しかった、とは思った。「アンダルシアの犬」のような幻想による強烈な現実感が無い。「インセプション」の大掛かりな世界の転倒や崩壊などの映像には楽しませてもらったが、それはあくまで映像技術の手品でしかなかった。
 ある地点でたいへんな出来事が起こって、その危機に間に合うか、間に合わぬか、ドキドキハラハラさせられる。グリフィスの昔からあるアメリカ映画の定跡だ。「インセプション」の新味は、それをたくさんの夢という可能世界の間で行った点だろう。反面、「要するにドキドキハラハラが売りのハリウッド映画だよね」という要約ですべて尽くされる映画でもある。
 一四〇分以上の映画を嫌う私が、約三時間を飽きること無く見ていられたのは、以上の、わかりやすい理屈、派手な映像の演出、伝統的な盛り上げ方、に由来するのだろう。反面、夢というものの秘密に迫る新しい表現は何も無かった。もちろん無くてもいい。「インセプション」は通俗大作である。
 見終わって、あらためて「パプリカ」の才能を惜しむ気持ちが湧いてきた。あの、手のひらが体内をさぐりまわる映像が、私の欲望までかき乱した感触を思い出した。ひとつだけ「インセプション」が頑張ったのはラストだろう。私もああいう終わりでなければならぬと思う。これは言わずにおく。