葉月の一番「文学界」8月号、綿矢りさ「勝手にふるえてろ」

 若い女性が主人公で、彼女には好きな男Aが居る。彼女を好きな男Bも居る。彼女は男Aを追いかける。彼女は男Bを傷つけ捨てる。だが、結末近くで心境の急転回がある。それはほとんど気分的なもので、改心の理由を説明する価値は無い。とにかく、主人公は男Bを求める。男Bは黙って主人公を受け入れる。おしまい。これは「文芸」夏号の柴崎友香寝ても覚めても」である。いや、「文学界」八月号の綿矢りさ勝手にふるえてろ」である。あれ?どっちだっけ。両方だったか。もし、主人公が男で、AとBが女だったら古典的なフェミニズムの格好の攻撃対象だろう。
 女が書けている、という言い方がほめ言葉になった時代があった、と聞く。「勝手にふるえてろ」はそんな小説だ。男Aはいじられキャラで、男性的な魅力に欠けている。でも、いじられる予感におびえて心臓をひくひくさせてる小動物的なところに主人公は萌えてしまう。執拗にそしてひそかに彼を観察して興奮している。そこが誇張されユーモラスによく書けている。反面、彼女は自分が観察や話題の対象に落ちてしまうのを好まない。見る者は見られる者でもあるという当然の逆説を納得できない彼女の幼さが、男Bを傷つけることにもなる。この幼いプライドはリアルに書けている。ユーモラスとリアルのバランスは良い。
 萌えもプライドも気分に支配されているから、彼女は自分で自分がよくわからず、行動は衝動的になりコントールできない。結局は支離滅裂になってしまうそんな自分を全面的に受け入れてくれる男を選ぶのである。男Bと相性の悪いことは主人公も自覚しているが、そんな分析よりも心境変化の気分の波の方が彼女には説得力があるのだ。あらすじは似ていながら、主人公の性格が結末を招く本作に対して、「寝ても覚めても」は作家の語り口が結末を導く、それが違いだろうか。