柄谷中上『小林秀雄をこえて』(1)

 たくさんの本を実家に置いている。それを読むのが帰省の楽しみである。この夏は柄谷行人中上健次の『小林秀雄をこえて』(1979)を読んだ。対談と評論みっつを載せた本だ。村上春樹が『1Q84』を解説してるインタヴューをいくつか読んでるうちに、物語が気になってきて、それで中上を思い出したのである。『小林秀雄をこえて』は小林秀雄論というよりは、近代文学批判の書である。対談を中心に読んだ。

中上 今日、小林秀雄を丁寧に、大胆に論じてみたいと思ったのは、自分がこれまで小説を書きながら、様々なことを考えてきて抜きさしならぬところに到ったという自覚からなんです。(略)この今の日本には文学と物語という二つのものがあるんじゃないかという考えなんです。(略)ところで、ふり返ってみてみますとどうしようもなく、オリみたいに重なっているものがわれわれ作家と呼ばれる人間の作品に付着している。それをとりあえず人間中心主義であり文学主義であると言います。それが蔓延してどうしようもない、ボケた状況になっている。(略)このボケた状況、人間中心主義や文学主義のイデオローグとして近代批評の創出者である小林秀雄が見えてくる訳です。

柄谷 日本の批評が小林秀雄という一つのパラダイムの上にあるということがみえてきた。たしかに、吉本隆明江藤淳もそれぞれ小林秀雄に対立するだろうが、それらもふくめて結局一つのパラダイムがあって、そのパラダイム自体に異和を感じはじめた。というより、猛烈に嫌悪をおぼえはじめたんですね。(略)アメリカに行こうとしていた頃、毎日新聞のインタヴューで、小林秀雄の批評は白樺派から出てきた、だから白樺派における「人間」とか「自己」とか「世界」という観念の成立にさかのぼってひっくりかえしたいとしゃべったおぼえがある。むろんべつにそのことを向うでやったわけじゃなくて、全力を集中したのはマルクスの問題だった。しかし、君がいったように、マルクスを読むことと、そういうことは実は、密接に結びついているわけだ。それで、現在では、小林秀雄がどうの、白樺派がどうのということではなくて、むしろ小林秀雄というプロブレマティク、あるいは近代の「文学」とか、「人間」とかいうものの制度性を根こそぎ問題にしようということになってきている。

 白樺派の「セカイ」なんて、私よりずっと前から気づいてそうだ。ところどころ、『枯木灘』や「人間中心主義」について、二人の意見を知らないとわかりづらい箇所がある。そこは一九七八年「現代思想」一月号の対談「文学の現在を問う」で補いながら読んだ。そんな補い方が正しいかどうかはわからない。引用はしておく。

柄谷 中上くんの小説を読むと、『枯木灘』なんかは、意味がない世界、言いかえれば罪もない世界だね。だけど、罪もなんにもない、そういう世界があって、しかもなんか罪の萌芽みたいなものがあるんだね。わけのわからん、意味の萌芽があるわけだ。だから、あれは自然じゃない、絶対自然の人間じゃないんだよ。自然と文化っていう、そういう人類学の二分法はぜんぜんナンセンスだと思う。つまり自然でも文化でもない、その根底にある、なんか意味の萌芽みたいなものね。そういう問題を中上くんはやってるんじゃないか、というふうに思った。それをきみは、性あるいは世代というところで考えようとしている。

中上 あのなかで、たとえば浜村龍造という男は材木屋やってるわけだ。そうすると、その材木ってのはさ、つまり志賀直哉が、あれだけ頭のいいやつがさ、あれだけやったやつが発見したのは、つまり植林した森なんだよ、大山でもね。もともと山は落ち生えで大きく育っているっていうの、絶対ありえないんだから。そうすると、読んでくれた人の大部分は、その山を見てつまり自然だと言ってるわけでしょ。だけど浜村龍造にとっては、これは商品だとかさ、あるいはこう歴史であるみたいなね、そうなってしまうじゃないか。すると、それを浜村龍造は知ってるわけだ。知ってて、つまり秋幸というある意味で無垢な自分の子供と対峙してるわけでしょ。たとえば近親姦ということに対して、そんなのはどうでもいいという浜村龍造の言葉は、重い言葉だよね。自然の秘密を、あいつこそが知っているのかも知れない。(略)おれのことを自然を書いてるみたいに言ってるっていうのは、つまり、ものを見てない。自分で、一回も材木でも樹木でも手で触ったこともないし見たこともないってやつだね、そういう不愉快さね。

 これは柄谷の最初の対談集に入っていた。中上が、自分は生き急いでると言ったり、柄谷がそれをまぜっかえして、いや八〇まで生きるさ、と返したりしている。ちなみに、最近の柄谷の連載か、それの載ってる雑誌か何かで読んだ記憶だと思うけれど、日本の山は戦国時代までは多くが禿山だったそうで、現在のような日本の「自然林」は江戸時代以降の植林の結果なんだそうだ。古い絵なんかを見るとわかるとのこと。