柄谷中上『小林秀雄をこえて』(2)

 私は中上健次を真面目に読んだことが無い。ざっと目を通してるだけなので、彼が物語を守ろうとしているのか壊そうとしているのか、よくわからなかった。久しぶりにこの本を読み返し、次の言葉に出会えば答は明瞭である。

中上 いまのように人がうたいまわっている自己表現というものなど信じないよ。つまり小説は物語に対する信仰と、信じないという罰当りすれすれを絶えず飛ぶんですよ。絶えずすれすれ。片目は信仰していて、片目は罰当りという、こういう目で書いている。

 もっとこれを長くした言葉を次回に紹介したい。そこに出てくる「文学」「人間」なんて言葉は前回の引用から判断した。志賀直哉の自然は人間的でしかない、というように。また、次回の引用には「プラトニズム」が出てくる。その意味合いは下記の引用で理解できよう。

柄谷 「真贋」なんていうのもそうだけれども、要するに正しいか間違っているか、というところで真理を考えている。これはハイデッガーが言っていることだけれども、そういう真理概念ができたのは、プラトンからなんだよね。ギリシャ語の原意では、それは存在するものの「隠れなさ」ということだけど、プラトンにおいて「正しさ」ということに転換している。小林秀雄は根本的にプラトニストなんだ。永遠なるイデアを求めている。彼は自分の書いたものをけずり書き加えて、どれもこれも同じようなものにしてしまう。「正しい」ことしかいおうとしない。だから、読むと退屈なんだよ。彼は永遠であるような文章を刻もうとしているわけだけど、テクストの永遠性があるとしたら、それが多義的で読みかえ可能だというところにこそあるんだ。戦争中に書いたものだって、その通り残しておけばよいのに、いったいいつどこで書かれたのかわからないように書きなおしてある。彼は永遠たらんとしているけれども、そんな文章はテクストにならない。なぜなら、ひとつの意味しかないんだからね。読みかえせもしない。どれを読んでも同じなんだから。彼のテクストは意識的に管理されている。われわれが昔の作品を読むときに、正しいとかまちがっているとかで読みやしない。まちがっているとしても、まちがい方そのものに意味があるんだ。ところが、小林秀雄の作品はそうではない。

柄谷 小林秀雄は、天才には見える、見える者には見えるなんていうけど、テクストというのはそういうものじゃない。小林秀雄はいつも"テクスト"を殺してしまうんだ。死体だけが本物なんですよ。たとえば、彼はよく解釈を排して物を直観せよというけれども、解釈ということの不可避性と問題性をわかっていない。たとえば、君は、『枯木灘』という自分の作品について、いつもあれこれいうよね。それは解釈しなおすことなんだ。というのも、『枯木灘』が不透明なテクストとしてあるからだよ。天才中上健次には一挙にものがみえたなんて、大うそだ(笑)。

柄谷 さっきもいったように、君はたとえば『枯木灘』を書いてから、自分で自分の作品を読もうとしているよね。君は作者かもしれないけど、その作品そのものが不透明な謎なんだろう。ところが、小林秀雄はすべて自分の作品を透明なものとして統制し管理しているわけだ。これほど暴力的なものはない。プラトニズムの暴力性。

 『枯木灘』が不透明でひとつの意味に決まらないことについては、前回の引用で理解しておく。