イーストウッド『グラン・トリノ』、蓮實重彦

 ある町に、ならず者の集団がいる。そして、正しく生きようとしてる家の姉弟を脅かす。ここで昔ながらのアメリカ映画なら、ヒーローの登場である。ならず者を皆殺しにして、最後に「おれはもうこの町にいられねえ」とか言って去ってゆく。では現代映画なら?どこまでこの定型を踏襲できるだろう。
 クリント・イーストウッドグラン・トリノ』がその模範解答だ。結末は言わずにおこう。そのうえで指摘しておきたいのは、監督自ら演ずる主人公が、銃と腕力でならず者に対抗することである。この威圧感が強調されている。暴力で解決を図ろうとするアメリカ人の確信に、「ブッシュの時代が終わっても、相変わらずそうきますか」と言いたくなる。反面、話し合いや相互理解に期待した日本人の甘さを思い知らされる。
 一番それを見せつけられるのが、若い白人と黄人の二人が三人の黒人にからまれる場面だ。人種の壁が厚い。二人の片方が、いくら友愛を説いてもせせら笑われるばかりだ。そこへ主人公の車が近づく。ゆっくりとターンするその描写が不気味なのである。そして、主人公の憎悪は、黒人を圧倒するだけでなく、友愛主義の若者までも追い払ってしまう。実は、それはそれで爽快なのだ。主人公の活躍によって不幸が起こるとはいえ、観客には彼を愛するより選択肢が無い。
 早くから蓮實重彦イーストウッドの監督作品を支持し続けてきた。本作では特にその役割が期待された。「群像」5月号の「映画時評」で取り上げただけでなく、同月の「文学界」で青山真治阿部和重との座談会に臨み、「ユリイカ」6月号では黒沢清と対談している。他に人が居ないのだから仕方ない。最も出来が良いのは「文学界」だった。一番言いたいことは言ってるし、何より、主人公のTシャツに注目するあたりなど、細部へのこだわりが健在である。青山も阿部もそこそこしゃべっている。青山の発言を引こう。私が触れた場面に関してである。

 モン族の女の子(スー)と白人の男が、黒人の三人組に絡まれる場面があるじゃないですか。その近くをピックアップトラックに乗って通りがかったイーストウッドが、車を停めて出てくるわけだけれど、あそこの切り返しやカット割なんて複雑過ぎて、このシーンにこれだけ手間をかけるんかな、と正直驚きましたね。

 続いて発言する阿部も蓮實も「びっくりした」「呆れた」と追随する。そこまで執拗に撮ったから、私の感じた不気味さが現れたんだとわかった。威圧感の強調とそれがもたらす不幸はイーストウッドの表現意図の範囲内にあるようである。