すばる3月号、藤野可織「いけにえ」

 昔の私は評論を読むのが楽しくて文芸誌を読んでいた。たとえば、いま私の書棚に並んでいて思い出せるのだけでも、1985年から「群像」で連載された柄谷行人「探究」、同じく磯田光一萩原朔太郎」、それから1986年の「新潮」に高橋英夫「疾走するモーツァルト」、そして1987年の「海燕」には蓮實重彦が後に「小説から遠く離れて」としてまとめる連載を始めている。座談会も熱があって、「文学界」での柄谷行人中野孝次の大ゲンカは1985年だった。一方、小説には期待が持てなかった。たとえば、1984年から86年の三年間で芥川賞は二人しか出ていない。そんなわけで、今年から文芸誌の読者として二十年ぶりの復帰を果たし、すぐ気が付いたのは、評論が堕落して、小説が面白くなっていたことである。前者はもう少し様子を見てやろう。後者は疑い無い。意外だった。
 最近の文芸誌に、いかにも定型の小説が載っていた。ずっと昔に子を失って心に傷を持つ老夫婦が旅に出て癒される話だ。こんな一言でまとめられるところに定型ぶりが発揮されている。こうした型を守るだけでなく、破ったりするにしても型どおりになるだろう。それが文学の終りの風景なのだ。二十年前にも漠然と感じていたこのことをはっきり見極めるのが、私の予定のひとつでもあった。ところが、藤野可織「いけにえ」のような、よくわからない小説に出会ってしまった。
 平凡というより魅力の無い主婦が、美術館で悪魔を見てしまう。彼女は自分の見たものについて、実に正確な観察と直観を有しており、結末においてまで、わかりきったように淡々と確信をもって事をこなす。唯一の誤りがあるとしたら、たぶんそれは悪魔ではないだろうということだが、しかし、それは「悪魔」と認識されるのが読者にもしっくりくるので、そう名付けた彼女はやはり正しいと思われる。ただし、その正しさを解釈する論理が私にはまったく見えない。手持ちの型には無さそうなのだ。つまり、思いもかけず私は現物の小説を読んでしまったのかもしれないのである。
 川上弘美『蛇を踏む』と比べればわかるが、藤野は不思議な設定やあらすじを不思議がらせようとしているわけではない。主人公にも取り立てて変ったところは無く、むしろ作者はその点をこそよく描き込んでいる。「平凡な日常にひそむ不気味さ」とか「現代社会に巣くう心の闇」とかを表現しているわけでもない。言い換えの利かない一回きりの出来事が書かれているように読めた。題名が鍵だろうか。
追記。主人公が肌の衰えを気にしていること、娘が二人いること、などを考えれば、「いけにえ」の解釈はそんなに難しくない。なんでそんなことに気がつかなかったんだろう(100717)。