中央公論3月号、特集「日本語は亡びるのか」

 「中央公論」までが水村早苗『日本語が亡びるとき』に刺激されて「日本語は亡びるのか」という特集を組んだ。恥ずかしいことに「ユリイカ」での特集と同じタイトルである。おまけに、三人の談話を載せた顔ぶれのうち、水村と蓮實重彦は「ユリイカ」と同じである。もう一人は東浩紀だった。
 水村に対する訊き手の数々の質問は一言でまとめられる。著者の主張の核だけがわかるような要約、だ。水村も丁寧にその要求に応えている。したがって、私が読み取ったのは『日本語が亡びるとき』で読んだことの再確認にとどまった。私が関心あるのは、こんな部分だ。

 私は、最近書かれた文章をまったく評価していないわけではないんです。送ってもらう文芸誌などをたまに読むと、「ああ、面白いな」と思います。でも、今書かれているものの中に優れたものがあるかどうかは、この際、本質的な問題ではないのです。英語が「普遍語」として流通するようになればなるほど、必然的に、「国語」は危うくなる。

 著書では「日本の文学は内側から一人で幼稚なものとなっていった」とある。世界で通用する普遍語としての英語に対し、日本語は現地語と化してゆく。それが幼稚化の原因だ。「<国民文学>とはまさに<自分たちの言葉>だけで充足することが可能であるがゆえに、いったん<自分たちの言葉>だけで充足するようになると、いつしか自動運動がはじまり、ついには<世界性>から取り残された人たちのふきだまりとなりうる」。そして、日本文学の現地語化と英語の普遍語化と、「この二つのあいだには、因果関係はない」とも述べている。
 今回の談話と著書は矛盾しているように思える。それはそう思えるだけのことなら、そう思う者に対する詳細な説明が本当は必要なところだ。水村にとっては「この際、本質的な問題ではない」のだろう。でも、私にはこれが『日本語が亡びるとき』の一番足りないところだと感じる。私が自分でこのブログで考えようとしていることでもある。
 蓮實重彦は「ユリイカ」に書いたのと別のことも伝えている。ひとつだけ触れておこう。『日本語が亡びるとき』には「叡智を求める人」という含蓄に富む命名を受けた人種が語られる。彼らは普遍語を解する。読まれるべき言葉の連鎖を歴史に紡いでゆく。彼らが日本文学を読まなくなれば、それが日本語が亡びるときだ。さて、蓮實は重要な指摘をしている。私の問題もこの方向で考えられるべきではないか。

 アメリカでも、イギリスでも、ごく一部の作家たちは、独特の言語体験によって、国語としての英語に何とか揺さぶりをかけようとしている。英語圏においては、水村さんがいっておられる<叡智を求める人>は、ことによると、<普遍語>としての英語を憎悪する人とならざるをえないのかもしれません。このことはあまり指摘されていませんが、実は水村さんにもその憎悪に近い何かがあるように思います。
 それに加えて、人は決して<普遍語>に満足しない。ラテン語は<普遍語>であったけれども、みんな自国語で書き始めたという歴史がある。それと同じことが今後も起こるかもしれない。その点をどうとらえていくかが問題です。

 東浩紀の談話は、訊き手がまったく『日本語が亡びるとき』に関心を持ってないのが特色である。頭の古い人なんだろう、グローバル化という観点が完全に欠けている。美しい日本語やその情緒と表現力を擁護し養成しようとする世情を大いに問うていた。これでは東の回答が、彼でなくても言えるような発言ばかりであるのはやむをえまい。
 そこをあえて水村の問題意識と対比させてみる。この特集でも水村は、「言葉は過去の言葉の宝庫を喚起できればできるほど、たんにそこに並んでいる文字を超えた豊かさを得ることができます」と語っている。それはそうだろう。東は、「みなが『漱石全集』を初版刊行当時の旧字旧仮名で読める水準にまで高めるために、リソースを投入するのだったら、ほかの教育に金をかけるべきだと思います」と言う。近代文学の古典を読ませるべきだという水村の教育論に、東は懐疑的な反応を示すのではないだろうか。