弥生の一番、群像3月号、村田沙耶香「星が吸う水」

 男性の自慰行為には動詞「抜く」が使われる。さて、女性も「抜く」ことができるだろうか。三十路を目前にした主人公鶴子は「抜ける」女性である。彼女の唯一の性感帯はクリトリスだ。ただし、小説ではすべて「突起」と書かれている。川上未映子の「先端」が思い浮かぶ。
 周知のように、男性の袋の縫い目は女性の割れ目が文字通り縫い合わされた跡であり、また、男性のペニスにあたるのが女性ではクリトリスになる。たがいに同質ではあるけど存在感に優劣があるので、女性は割れ目の奥を、男性はペニスを、それぞれの性の象徴とされてきた。その点で、「突起」や「先端」は新しい傾向である。
 冒頭は鶴子の性交だ。まづ、「鶴子は自分が勃起しているのを感じていた」、「股の間の神経は鶴子の突起へ集結している」、「そのまわりは丸い疼きの塊に覆われていた」。性器の挿入は相手の体に突起をこすりつけるための準備であり、「何かが突起から抜けていく感覚があった」という形で果てる。この引用だけでもわかるだろう、彼女のセックスは他人の体を道具にした自慰である。
 字義どおりの自慰の描写もあり、それは「強引に手の刺激だけで抜こうと試みた」ものだ。他者の肉体を想像でさえ欲しない彼女の性交や自慰は性なんだろうか。私には自分が体のかゆいところを掻くのと似ているように思えてしまう。
 最後の場面について、「毎日新聞」の「文芸時評」で川村湊は、「まさに地球との性交そのものではないか」と述べている。「群像」の「創作合評」で宇野常寛は、この作品の「性的な回路を通じて何か大きなものに接続する、世界に接続するところは絶対に外せないポイントだ」と述べている。スケールの大きな性を両者とも感じている。しかし、そうした志向の馬鹿馬鹿しさは「二軒目の温泉」のエピソードで書きつくされているではないか。なお、こうした大きさがむしろ独我論の産物であることは、柄谷行人が前から指摘しているとおりだ。
 『法華経』の変性男子(へんじょうなんし)を参照しよう。もともと救われぬ存在とされていた女性が、男根を生やして男性化することで成仏する話である。「龍女、忽然の間に変じて男子と成り、菩薩の行を具す」(提婆達多品)。クリトリスのままでは鶴子は救われないのだ。それは「突起」や「先端」と言われねばならない。そのうえで女性の特異性にこだわる未映子の語り手に対し、村田沙耶香の主人公は、「自分が女だということが、だんだんと遠ざかっていく」と言う。わざわざ強調して書いてある。
 前日の性交の名残が膣からこぼれる、その精液を「もうすっかり自分のものになって見えた」と思う。それが彼女の満足なのだ。さらに、「女も立ちションできるんだよ」と、証明して見せる。これを「地球との性交」と呼ぶのと、「変性男子」の現代版と呼ぶのとどちらが近いだろう。また、「性」と言いながら、宇野がほとんど鶴子の女性としてのこうした意識を問題にしないのも奇異である。
 もちろん、鶴子は男になりたいわけではない。鶴子独特の「変性」とは、彼女の言葉を借りれば「男とか女とかがなくなる」、それが「心地よくて、抜ける、って感じ」なのだ。実は、この作品それ自体よりも、こんな、書いてあることをそのまま読めばわかるようなことを、大きな世界物語として解釈してしまう評論家の巨根信仰を私は批判してみたかったのである。
 付け加えておく。この作品には水が流される場面が三つある。ミネラルウォーター、トイレの水、そして最後の場面。それら三つの対比のうえに題名があるのだろう。