第60回読売文学賞、黒川創『かもめの日』、文学界3月号、吉村萬壱「独居45」

 「わたしはかもめ」は最初の女性宇宙飛行士テレシコワの声だと思うと、はつらつとした印象をもって聞こえる。しかし、彼女は当時の国策にがんじがらめにされていただろう。いや、もともとはチェーホフ『かもめ』のニーナの声だ。清純さを失い、精神的にもどこか変調をきたした、ぼろぼろの女のつぶやきである。ただし、彼女は「忍耐」を信条として過去を振り切って旅立つ。
 黒川創『かもめの日』にはテレシコワとチェーホフの挿話が何度も現れ、「わたしはかもめ」に、上記の複雑なニュアンスをすべて取り込んでゆく。そして、宇宙から啓示的に届くそれは登場人物全員の人生の隠喩として仕立て上がるのだ。作中でニーナについてはほとんど言及されないが、読者は彼女を前提として知っておくべきだろう。
 登場人物では絵里がよく書けている。しかし、「群像」昨年3月号の「創作合評」でも指摘されていたが、人物造形は概して良くない。特に、千恵と圭子、幸田と瀬戸山の間で、口調や性格の見分けがつかなかった。立場の違いは書き分けられていたが、存在感が同じである。いろいろな人間の違いを書き分けたうえで、それを一つのイメージのもとに包むのが狙いの小説なのだから、これでは物足りない。
 複数の人間を書き分け、それぞれの視点が相互に照らし合う味では、吉村萬壱の方が上手だ。本人の視点では真剣な行為や主張も、第三者から見ればしばしば滑稽だ。白熱した中心人物の苦行や信念は、彼をとりまく人物の目からは、崇高にも奇異にも不快にも笑止にも映る。「独居45」は短編「不浄道」でやったことを長編でより複雑に表現した、とも言えよう。何度も笑いながら読み終えた。
 萬壱は暴力をよく描く。『ハリガネムシ』もそうだった。あの作品は複数の視点を獲得していない。作中で暴力は決してシャレにならない特権的な聖域に収まってしまう。たいがいの文学において、セックスと暴力はそうしたものだ。それが「独居45」では、四本の手足がもげるような事態でさえ充分に滑稽なのである。理由は上記の相互の照らし合いにあるのは言うまでも無い。
 『かもめの日』は「わたしはかもめ」のライトモティーフが通底することで、人物たちの生を意義づけ、終えることができた。千恵らしき女性が絵里らしき少女に言う、「あなたの顔、好きよ。幸福と不幸が、いつまでも混じりあっているような。ちゃんとそれを感じて、受けとめているのって、きっと大事なことだものね」、この言葉がそうだ。
 そして、ここは池澤夏樹が「クラインの壺を見る思いがする」と評した名場面でもある(毎日新聞、2008年4月27日)。千恵と絵里の会話でありながら、瀬戸山の書いた放送原稿の一部でもあるのだ。それは、本当は一堂に会することのあり得ぬ、すべての主要登場人物に、作者が上記の言葉を立ち合わせた、ということである。「独居45」にはこうした救いが無い。ひとつの証言は他の証言によって疑われ、何が真実かあいまいなまま終わる。言葉の限界を放り出して見せた萬壱に対し、黒川は言葉で出来ることをリアリズムを超えて試す執念を見せた。