08年9月号からの「現代詩手帖」投稿欄

 二十年ほど前までは「現代詩手帖」を買い続けていた。ただし、古本屋で七〇年代やさらに昔の号をさがす方が好きだった。対談や座談会が頼もしく、鮎川信夫吉本隆明谷川俊太郎大岡信が常連だったからである。一五〇円ほどだった。

 私はいま、戦後詩から自由になって机に向かうことができない。戦後詩がうちたてた技術の総体に軟禁されているようなのだ。つまり、詩を書くときに手もとが狂えないのだ。三十二年の技術の累積が一つの鬼面になって書き手をおびやかす、かじかませる、そういう場面が私だけにあるとはいいきれないだろう。平たくいえば、へたに詩を書けないのだ、へたに詩を書くことは、戦後三十二年がもたらした技術(ここにすべてが集結する)を何一つ見なかったと同じことになるのだ。

 荒川洋治「技術の威嚇」である。初出は1977年10月号で、その時は「戦後詩から虚心(うつろ)になって机に向かうことができない」だった。このエッセイは11月号に詩人たちの座談会で延々と叩かれた。「技術で詩を書く」という態度が出席者を刺激したようである。でも、「戦後詩の歴史」を重圧として描いた「軟禁」のイメージは予言的だったのではないか。
 書き手よりも読む側に意識できた問題かもしれない。私は八〇年代以降、たいていの新人に、「こういう感じ、松浦寿輝の真似かなあ」とか、「女の詩人って井坂洋子みたいなのが多いね」とか、既視感がつきまとった。「五〇年代詩」「六〇年代詩」「七〇年代詩」に相当する、各時代を代表する新しい言葉が生まれてきたが、それ以降は存在していない。日夏耿之介が「暗黒時代」と呼んだ大正時代の一時期に似ていると私は思ったこともあったが、もう長すぎて今となっては夜明けを信じることはできない。詩は終わったのだ。詩はすでにあるものとして、それを変えられないと、きっとこうなる。明日のことはわからない。でも今を考えるにあたっては、この見方が一番有効だろう。
 それでも人は詩を書ける。老人が俳句を始めるのと似ているか。昨年9月号から今年3月号までの「現代詩手帖」投稿欄をざっと見た。白鳥央堂(ひさたか)と中村梨々の将来が気になった。白鳥は難しいのでまた後の機会にして、中村について書こう。「夜の背」(9月号)の冒頭と末尾を。入浴する女性の詩で全体は20行ほどだ。
  からだからあらゆる球を取り出して洗う
  どこからも月はのぼらない
  人は人でも自然でもなくなり
  吠えることもできず
  自分宛の絵文字を送り続けて朝になる。
   ( 略 )
  腕を抜き足を時間を逆撫でするように
  紅い腹をさすり
  順を追って説明しても届かない
  改、の字を湯に書く。

 体を洗うことが同時に魂を洗うことであるような表現や、あいまいな隠喩で全体をふわっと仕上げる作風など、やはり「どっかで見たよね」だ。そのうえで、どう読めばいいのだろう。一行目の「球」が二行目の「月」をなまなましく想起させながらも、それはのぼらない月である。そんな中途半端な自分の発する「絵文字」が、そこだけの言葉のようでいて、末尾まで利いてハッとさせ、終わる。申しぶん無い「技術」だ。ほぼ誤解されてしまった荒川の主張は、「肉感へいくども舞いおりながら、わが身を押しこめる技術の魔的な後背を直視する、その過程でこそ私はみずからの「生」を練るものでありたい」と終わる。いま読み直して、これに反発するのは難しいように思える。梨々も同意してくれるといいのだが。