すばる3月号、ル・クレジオ「逆説の森のなかで」、2月の村上春樹、エルサレム賞記念講演

 ル・クレジオノーベル賞をもらった。星埜守之訳「逆説の森のなかで」は昨年十二月七日の受賞記念講演である。「逆説の森」はダーゲルマンの言葉で、「飢えた人々のためにこそ書きたいと望んでいたというのに、彼の存在に気づくのは結局、充分に食べ物のある人々だけだ」という、しばしば作家を悩ませる状況のことだ。作家がどんなに弱き者を守り、強き者に立ち向かおうとしたところで、それはたしかに「ペンに不可欠な美徳」の実践であるにしても、「彼の反抗、彼の拒絶、彼の呪詛は、それでもやはり、柵のある一方の側、強者の言語の側にいるのです」。
 それでも彼は文学の必要性を訴える。根拠はふたつある。ひとつは、文学は言語によって作られるものであり、言語は人類に不可欠であること。言語によって生かされる作家が居なければ、言語は「衰退し、縮小し、消滅してしまうかもしれません」。もうひとつの根拠は、媒体としての書物が簡便であることだ。世界中に普及させるには困難が立ちはだかるにしても、コンピューターに比べれば解決は容易だろう。
 グローバル化に関して二点どちらにおいても水村美苗日本語が亡びるとき』より楽天的である。第一点については、後進的であろうとなかろうとあらゆる民族が言語を持ち、「それらの言語一つひとつが、世界を表現することを可能にする、同じように論理的で複雑でしっかりと構築されていて分析的な−科学を語ることのできる、あるいは神話を創出することのできる−全体をなしているのです」と述べている。第二点については、少数の民族がその言語を使って英語に対抗するのは不可能であるにしても、「翻訳によって世界が彼らの声を聞くことができるということは、何か新しくて楽観的なものが生起しつつあるということなのです」と述べている。
 あまりに対照的で、水村との比較がすぐにはできないが、直観的には、どちらが正しい場合でも、欧米以外の言語文化を判断する価値基準には欧米の言語論理が適用される気がする。日本語が亡ぶ、と水村が呼ぶのはまさにそういう状況だ。ル・クレジオ楽天性も自身の言語は揺らぐとは思ってもいない安心から生まれたのだろう。
 村上春樹エルサレム賞を受賞した。私は初めて聞く賞だった。正式には「社会の中の個人の自由のためのエルサレム賞」という権威ある文学賞だそうだ。先月の十五日に記念講演があった。強者と弱者に関する話とも読める。春樹は「小説を書いているときにいつも心に留めていること」として、「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」と述べた。「その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、私は卵サイドに立ちます」と付け加えたところが良い。しかし、今日は「逆説の森」を念頭において次の一節を引用しよう。春樹は、自分は「ペンに不可欠な美徳」を実践しているだけだ、と述べているわけではないのだ。

 私たちは皆、多かれ少なかれ、卵なのです。私たちはそれぞれ、壊れやすい殻の中に入った個性的でかけがえのない心を持っているのです。わたしもそうですし、皆さんもそうなのです。そして、私たちは皆、程度の差こそあれ、高く、堅固な壁に直面しています。その壁の名前は「システム」です。「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。(47NEWS編集部訳)

 ここから、小説を書くただひとつの目的は「個々の精神が持つ威厳さを表出し、それに光を当てること」だという断言が導かれる。小説が「システム」への抵抗になる。グローバル化も「システム」のひとつだろう。水村の悲観論を乗り越える契機を小説は秘めているかもしれない。三日の「読売新聞」によると、このイスラエル滞在中に春樹は「結局、自分は日本人作家であり、母国から逃れられないと悟った」と語ったそうだ。