文芸、春号、小池昌代「わたしたちはまだ、その場所を知らない」

 作者の公式サイトには「詩に惹かれる女子中学生と女教師、同級生の男の子をめぐる小説です」とだけコメントされている。作中にも「詩」という言葉は何度も現れる。小池昌代は八〇年代に詩が終わってからの詩人である。なぜ彼女だけが詩を書けるのか、私はわからずにいる。
 小説には中学校の葡萄棚が出てきて、職場に違和感のある女教師はひとりここでくつろいでいる。葡萄棚といえば「悲鳴」を想起せずにはいられない。あざやかな冒頭部を持つこの詩には、実った葡萄を描く次のような一節があるのだ。「引力に従って垂れ下ったまま。水をもつものの、それは習いだが、どんな悲鳴をあげているのか。いかなるものとも接点をもたない吊り下げられたしずかな世界で」。そして最後の一節は、「葡萄棚の下を傷ついた人がいく。背広の背中を木漏れ日があたためる。光に選ばれていることも知らない」。
 小説ではこうだ。「この世の摂理、つまり引力に、素直に従っている葡萄たちは、吊り下がるばかりで無力であり、言葉を持たずに沈黙していた。そうしてじっと、成熟に耐えている。あの葡萄のように生きる者がいる」。ここの「沈黙」と詩に書かれた「悲鳴」は同じだ。「背広の背中」は「成熟に耐えている」姿でもある。「そうありたい」と思う女教師は受苦的な感性の持ち主なのだ。
 なぜ「そうありたい」のか。稚拙な読み手の私を「悲鳴」と本作の重ね合わせは助けてくれる。引用はもう避けて結論だけ言えば、「成熟に耐えている」緊張感に美しさが光るからである。この場合の成熟とは腐乱に等しい意味だ。無論、「成熟に耐えている」とはピーター・パンのように成熟を拒否するのではなく、腐乱しつつあり、それに耐える、ということである。小池の文学はそれを美しく感じさせてくれる。
 ただし、女教師は「そうありたい」と思うのみで、自ら体現しているわけではない。葡萄の悲鳴が沈黙として誰にも伝わらないのは孤独だからだ。彼女はそれに徹しきれない人間なのである。つい余計な行為が出てしまう。そして、そのむなしさの中に閉じこもりつつ、小説の主役を残り1ページちょっとのところで降りることになる。そこからようやく彼女は「光に選ばれて」ゆく、とも私は思うが、作者はそれを描きたいわけではなかった。
 彼女を受け継いで小説を結末に導く女子中学生と同級生の男の子の二人については特に言わずにおく。なお、後者の書いた詩に出てくる「足の指が十六本ある赤ん坊」は昨年11月6日に中国広東省雷州の出来事として実際にロイターが伝えたニュースである。