中央公論5月号、西部柄谷対談「恐慌・国家・資本主義」

 西部邁柄谷行人の対談を読んだ。二人の経歴をくだくだ言う必要は無かろう。柄谷はこれまでの持説を話題に応じて引き出している。それらのほぼすべてに西部が同意して、「柄谷さんとぼくはたぶん感覚が似ている」と述べていたのが印象的だった。「表現は違うけど、意見が一致している」とも言っている。たしかにそんな感じの西部の発言が、柄谷ファンの私には有益だった。
 ひとつだけ記しておこう。「柄谷さんのやっている地域通貨の問題が出てくる」と西部が触れたくだりだ。西部はNAMのことを言っているのだろうが、当然のことをふたつ確認しておくと、まづ、NAMは破綻して2003年に解散している。それから、NAMはたしかに「地域」という言葉で自らを説明しているが、「根本的にトランスナショナルな組織」である(柄谷『原理』2000年)。後者が重要だ。NAMの地域通貨はグローバルなのである。さて、西部は通常の地域通貨について、国内為替が厄介だと述べている。

 例えば、北海道貨幣と沖縄貨幣の交換率はどう決まるか。市場の参加者たちが、沖縄経済はどうなるかということをあれこれ調べたりしなければ、売り買いもできない。そういう意味で参加者たちが膨大な情報を持っていなければ、地域通貨間の交換は成り立たないではないか。

 むしろ、成り立つべきではないだろう。地域通貨為替相場が盛んになってしまえば、そのマネーゲームによって崩壊する地域通貨が必ず現れるはずだ。しかし、NAMの地域通貨は運動の根本原理からいっても、通貨間の交換を拒否できないと思う。柄谷も、西部の発言を受けて、「ぼくは『市場』にも賛成ですよ」と答えている。彼の解決策はこうだ。

 資本主義的な支配を抑えるには、交易と市場を分離してしまえばいいのではないか、といえますね。例えば、日常的な必需品に関して、それを海外の、マーケットと連結してしまうのは危険です。それをregional money によって切り離してしまえばよい。(引用者注、regional money は要するに地域通貨

 これに西部はあっさり、「それなら賛成だね」と応じている。彼の賛成はしかし、通常の地域通貨におけるものだろう。対して、柄谷はNAMの地域通貨にも当てはまる意見として述べているはずである。すると、直観的な感想なのだが、地域通貨の上記の発言のような使われ方は、「資本と国家に対抗する運動」としてのNAMのスケールの大きさに相応しくないと思うのである。
 NAMの失敗は原理的なものではない、と私は思っていた。柄谷自身の説明によれば、失敗の理由はふたつあって、「インターネットのメーリングリストに依存しすぎたこと」、それから、「運動に経験がある未知の人たちに会って組織すべきだったのに、僕の読者を集めちゃった」ことである(「文学界」2004年11月「絶えざる移動としての批評」)。しかし、このふたつを改善したとしても、上記の問題を考えると、いづれ為替で失敗する気もしてきた。
 ただし、柄谷自身の貨幣論も深化しつつある。「at」で連載中の「『世界共和国へ』に関するノート」などに、ちょっと気になるところがある。そこまで語り切れる力が私に無いのが残念だ。追記。柄谷は「地域通貨」ではなく「市民通貨」という語も使う。この方が彼の理論に適してもいる。さて、調べ直して思い出した。NAMの通貨がNAMのスケールに見合わない、と書いたが、柄谷自身がこの点について、「私の考えでは、市民通貨全経済活動の1/10を越える時点で、経済・政治の全体が違ってくるはずです」と述べていた(『日本精神分析』2002年)。ああそうだ、1/10でよかったんだ、と思った。ただし、柄谷の原理で1/10が達成できるかどうかはまた別の問題である。