島田雅彦『悪貨』

 島田雅彦について、「一作でもいいから、その才能・資質にみあう形で小説を完成してもらいたいものである」と、福田和也は『作家の値うち』に書いた。それから十年たった。相変わらず島田は大家っぽい未完の大器だ。傑作を書かないのは彼の作風なんだと、もう認めるべきだろう。どうでもいいものを書いてるな、と思いつつも、我々は彼の小説を楽しんでるのだし。
 デヴュー作『優しいサヨクのための嬉遊曲』(一九八三)にせよ、いま「文学界」で連載中の最新作「傾国少女」にせよ、その時その時でのいかにもマスコミ受けしそうな、いまふうの設定を並べ立てて、登場人物に気の利いたセリフを語らせる、という小説だ。これでは登場人物に自立した厚みが得られない。
 『悪貨』も最初から最後まで島田の作風に忠実である。ホームレス、ひったくり、中国人のマネー・ロンダリングスパルタ農法に凝った親の借金を返そうとするキャバクラ嬢、資本主義に対抗する地域通貨を発行する宗教団体、それから、ネットの匿名掲示板も出てくる。
 ただ、ちょっと魅力のある登場人物が出てくるのが目を惹いた。ネタバレを避けて、名前だけ挙げておこう。フクロウである。彼以外の登場人物はほとんど書き換え可能だ。極端な例を重要な登場人物で考えると、女刑事エリカを男性に書き換えて、犯人との恋愛の要素を消しても、作家の書きたかった『悪貨』はそのまま残るだろう。対して、フクロウは脇役にすぎない。しかし、彼の設定は、事件が起こる事情にも、解決する事情にも絡んでおり、これを変えたら『悪貨』は別の作品になってしまう。
 それが登場人物の厚みというやつかもしれない。島田の小説が薄っぺらに思えてしまうのは、フクロウ的な設定が例外としてしか現れないからではないか。
 と文句を言いつつ、私は島田雅彦をわりと読む。なんでだろう。再び『作家の値うち』にあたると、福田は一番高い点数89点をつけた『彼岸先生』について、「偽物でしかありえない、いかがわしさにおいてしか真剣になれないという現代における「誠実」の問題、その「倫理」を作者としては最高度の懸命さで実現した傑作」と述べている。「偽物」がキーワードだ。福田は他の島田作品についてもこの語で説明している。この点で思い当たる節は私にもあって、きっとこのあたりをうまく言えたらいいんだろう。

 偽札は感染力の強いウイルスに似て、人から人に瞬く間に広がる。気がついた時には国境を越えて蔓延し、インフレや信用不安、パニックなどの症状を引き起こし、やがては経済活動を麻痺させる。このウイルスに対抗できるワクチンなど存在しない。(『悪貨』)

 さしあたり、『悪貨』に出てくる偽物といえば、もちろん偽札である。柄谷行人は、「私の考えでは、市民通貨全経済活動の1/10を越える時点で、経済・政治の全体が違ってくるはずです」と述べていた(『日本精神分析』2002年)。『悪貨』の組織は数百億の偽札を発行した。

 偽札の流通量が紙幣流通量全体の〇・〇一パーセントを超えると、インフレの危険が高まるといわれている。日本銀行券発行高と貨幣流通高に日銀当座預金を足したマネタリーベースは九十五兆円前後だから、二百億といえば、〇・〇二パーセントにも及ぶ。もし、本当にそれだけの偽札が出回っていたら、すでにハイパーインフレの警戒水域を越えている。(『悪貨』)

 いやはや、偽札には市民通貨の千倍の効果がある。「才能・資質にみあう」本物を書かない偽物の魅力もこんなところに由来するのかも。「群像」十一月号での『世界史の構造』をめぐる鼎談で、島田は柄谷に「交換様式Dを世界的に広めていくときの貨幣のイメージというのが、具体的に何かありますか」と問うた。柄谷は笑いながら「それは「悪貨」じゃないですか」と答えている。くだらん冗談とも思えなくなってきた。