佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』第二夜(その2)

 ルターが『聖書』を「読んだ」というのは有名な話だ。私が初めて意識するようになったのは柄谷行人「テクストとしての聖書」(一九九一)だった。いまは『ヒューモアとしての唯物論』で読める。ややこしいことを言っている。

 ひとびとが聖書を読みはじめたのは、ルター及びそれに続く翻訳を通してである。これは、同時に相反する二つのことを意味する。第一に、聖書が重視されるようになったということであり、第二に無視されるようになったということである。第一に関していえば、それは「聖書に帰れ」というルターの言葉に代表されるだろう。教会の教義や神学などより、聖書が大切なのだ。だが、第二に、ルターにとって大切なのは、信仰の内面的な直接性であり、それはいいかえれば、内的言語あるいはパロールにおいて見いだされるものである。実は、このとき「歴史」として書かれた『聖書』は不要となる。内面的直接性だけが大切なのだから。

 一言で言えば、「ルターは『聖書』を取り戻すとともに、それを消去したのだ」。『聖書』を大切に読む者は『聖書』を見失うのである。柄谷はデリダを対置させる。さらにややこしくなる。デリダは『聖書』のありがたみを認めない。「が、まさにそうであるがゆえに」、『聖書』を回復する。「デリダにとって、エクリチュールは、音声=内面化しえない、それに先行する外部性である」。すると、ルターや彼の後続者によって読みこまれ意味づけられた『聖書』は、ふたたび読み切れず意味に置き変えられないテクストとして立ちふさがる。
 世界宗教の原典のうち、こんな印象を与えるのは『聖書』と『論語』だけだ、と柄谷は言う。ほかは「コーランも仏典もプラトンもまとまりがよすぎる」。イエス孔子が似ているという話ではない。書記の仕方、エクリチュールの問題だ。「重要なのは、始祖たちよりも、書記者たちの姿勢、あるいは、彼らの姿勢の背後にある一種の伝統である。一言でいえば、「歴史」の意識なのだが、それは書くことと切り離しえないのである」。
 『切りとれ、あの祈る手を』を読んで「テクストとしての聖書」を思い出し、ひさしぶりに読み返した次第である。すげえもんを読んでしまった、という二十年前の驚愕がよみがえった。逆に言うと二十年間、私は忘れていたわけである。思うに、柄谷もこの時に語った「歴史」を忘れて今に至っているのではなかろうか。最近の本では、退屈な『柄谷行人政治を語る』がそうだし、『世界史の構造』の歴史でも「書く」という観点は無かった。
 柄谷と佐々木中の本の第二夜は二点で相違が際立つ。ひとつは、佐々木がルターの強調した「良心」を重視することである。「良心」が柄谷の言う「内面的直接性」に対応するからだ。「良心」はあまり『切りとれ、あの祈る手を』では語られない。『夜戦と永遠』ですでに書いてしまった、とのこと。もうひとつは、佐々木と柄谷の「革命」について。柄谷は『世界史の構造』で革命を語った。それは、世界大戦のような悲惨な経験を経てこそ実現される。対して、佐々木が熱をこめて繰り返し主張するのは、多くの革命で血が流れたのは確かだが、読むことが革命なのだから、暴力無しの革命はありうる、ということである。