柄谷行人『世界史の構造』(6)「第三部第一章第二章第三章」

 国家、資本、ネーション、これらについて、そして、それらの密接な関係について論じた。「ネーション」は以下、「国民」と書いておく。
 国家を国家の内側から論じてもわからない。国家は他の国家に対して存在する。そう考えて明らかになる国家の力というものがある。それは特に敵対関係においてはっきりする。たとえば、イギリスの主権が国王にあった時と国民にあった時では、イギリス人にとっては大きな違いがあろう。しかし、アイルランド人から見れば、イギリスの国家行為に変化は無い。そのような国家行為を準備し実行するのが官僚であり軍隊だ。彼らによる学校教育と徴兵制が産業資本主義の労働者を生む。
 第三部での柄谷行人は産業資本を中心にして資本主義を説明する。要所は労働力商品である。労働者は自分の労働力を売る。そして労働者の作った製品を買う。その過程で生じる剰余価値を資本家は得る。技術革新による大量の新商品が価格体系を変えることで剰余価値は生まれる。もちろん、新商品を買ってくれる者が必要だ。だから、資本主義は労働者を増やし続けねばならない。農村から、あるいは外国から。そして、地球が有限である以上、それには限界があり、現在ほぼそれに近づいている。
 産業資本が資本主義の中心になって、商人資本や金貸し資本はその下に再編成された。株式会社や銀行がそうだ。ところがそれらの発展は、商人資本や金貸し資本が産業資本を凌駕する結果をもたらしたのである。その果てが、金融の規制がゆるんだ一九九〇年代以降のグローバリゼーションの世界経済だ。
 ヨーロッパではローマ教会やラテン語が、帝国にあたる権威を持っていた。それを否定して独自の国教会や国語を確立することで絶対王権が始まる。かつてはさまざまな身分や集団に属していた人々が、王の臣下という同一の立場におかれる。また、国家の教育と徴兵の制度が均質なタイプの労働者を大量に生む。こうして国民が生まれる。
 つまり、国民は交換様式BとCから生まれる、と言っていい。ただし、国民を結びつける連帯感は交換様式Aにもとづく。国家と資本によって解体された共同体を回復しようとする感情だ。国家と資本を支えるよう生まれた国民ではあるが、その意味では、国家と資本の批判者でもある。もっとも、連帯感の原泉となる民族、言語、大地、宗教、等々は想像の産物にすぎないのだが。
 国家、資本、国民が強固に絡み合って切っても切れない三位一体の様を初めて説き明かしたのがヘーゲル『法の哲学』である。ただし、国民の紐帯が想像の産物でしかないことをヘーゲルは見落とした。この点から考えれば、三位一体を超える可能性も見えてくるだろう。
 感想。(3)で述べた、従来の柄谷理論では現代のマネーゲームが説明できない、という私の不満が解消された。それが印象に残る。産業資本を中心に考えるという従来の線を崩さずに済む説明だ。産業資本を基本にして金融資本が巨大化した、と言う。なぜ?柄谷は『資本論』を引用して説明したが、同じ章のちょっと別のところを参照した方が、私にはわかりやすかった。「(資本の)循環は、貨幣資本の循環として現象する。けだし、産業資本が貨幣形態で、貨幣資本として、自己の総過程の出発点および復帰点をなすからである。(略、そのため)生産過程は、金儲けのための不可避的中間項−必要な悪−としてのみ現象する。だから、資本制的生産様式下のあらゆる国民は、周期的に一つの幻惑、すなわち、生産過程の媒介をまたないで金儲けしようとする幻惑におそわれる」(第二部第一篇第一章第四節)。ヘーゲルについては『トランスクリティーク』から引用しておくのがわかりやすい。「ヘーゲルは、一方で、「欲望の体系」としての市民社会の「自由」を肯定しながら、それがもたらす富の不平等を是正するのが、理性的な国家=官僚であると考えた。また彼は「自由」と「平等」の矛盾を超えるものとしての「友愛」をネーションに見出している」(第二部第四章)。ただし、ネーションの想像的な面に関してヘーゲルを批判するのは、『トランスクリティーク』には無いかもしれない。『世界共和国へ』には、ほとんど文章も同じで書かれている。追記。資本主義は労働者を増やし続けねばならない、という話も『トランスクリティーク』では強調されてないかもしれない。『世界共和国へ』にははっきり書かれている。