中之島国立国際美術館、束芋「断面の世代」展、ほか

 こないだ奈良に行ってきた。興福寺の展示が変わった国宝館を見たかったのだ。昨年まで阿修羅様をはじめとする八部衆はガラス戸の向こうに並んでいた。病院の人体模型のようで風情が無かったのである。今は、うす暗い部屋の効果的な照明で浮き上がるように設置されていた。見る者との間に仕切りも無い。そして、八体全部がそろっている。それがうれしい。以前は二体か三体が、近所の奈良国立博物館にあったのだ。ただ、照明は演出過剰の気もした。仏像を、信仰の対象であることを忘れて、美術品として扱っているのではないか。以前のは拝みたくなる雰囲気が不思議とあったものである。リクルートスーツのいかにも疲れ果てた女子大生が、阿修羅だけをずっと見つめ続けていた姿が忘れられない。新しい展示で、あんなに思いをこめて見に来る人はきっと場違いだろう。
 奈良の何日かあとに、打って変わって中之島国立国際美術館で現代美術を見てきた。横尾忠則の全ポスター展をやっていて、これがすごかった。図録が一万二千円もするほどだ。画家や小説家としての横尾を黙殺してきた私に、絵描きとしての横尾への敬意がよみがえった。
 でも私は束芋(たばいも)を見に来たのである。いきなり真っ暗の展示場だ。目の衰えた中高年の何人かが壁に激突したに違いない。入口に案内員が立っており、闇の内部を指さして、「すぐそこを左にお曲がりください」。すぐそこって?とにかく二歩踏みこんで左折したら正解だった。そこに別の案内員が待ち構えており、足元にクッションがあるから寝そべれ、と指示された。天井にアニメが流れる趣向なのである。だいたいがこんな感じの展覧会だった。画面に四階建てアパートがCTスキャンされたように輪切りにされてゆく。輪切りのたびに、各部屋の机や箪笥や押し入れの中身が次々と押し出され、集団で飛び降り自殺するように落下し消えてゆく。最後にそれが巻き戻され、落ちた家具たちが自動的に舞い上がって収納されてゆく。落下、はこの会場で気になる主題だった。重い物ほど速く落ちる、というアリストテレス的落下ではなく、軽さゆえに落ちる、という感じだ。その軽さは、本来大事なものが意味を失って落ちる、というふうに見えた。昇天する物さえ落ちるように見えた。
 誰でも気づくこととして、束芋の特徴は持続と変容である。同じ物が存在を続け、それが変化し続ける。アニメは彼女に合った表現方法だ。静止画でさえそれは感じられる。たとえば、人体が電車にもなるような描き方。そうした変容は百年前のマッケイの草創期のアニメを思い出させる。逆に言えば、誰でもできる表現方法だ。それだけの束芋ではない。画面を三面にしたりする。そうして見る者を画面で囲んで絵の中に巻き込んでしまう。そんな工夫が今回はもっと凝った演出で現れた。暗い円環のトンネルの中に見る者を歩かせる。左右には巨大な花が水面に浮上して開く。のみならず足元からは、泡が湧き立ち、海蛇のようにくねる背骨が泳いで、それが左右に上がって花に変化してゆく。水族館のようだが、水の中に居るという実感がもっと強い。私はたまたま空腹だったこともあって、くらくらして気分が悪くなったほどである。
 アパートの輪切りは「団地層」、円環トンネルは「BLOW」、どちらも五分以内、二〇〇九年制作の映像インスタレーションである。