すばる5月号「文芸漫談」奥泉光いとうせいこう「後藤明生『挟み撃ち』を読む」

 私にとって、後藤明生というと『挟み撃ち』(1973年)の作家であり、なんでそうかというと、蓮實重彦の熱烈な頌があるからである。1975年初出で後に『小説論=批評論』所収の「『挟み撃ち』または模倣の創意」がそれだ。一言だけ引用すると、主人公の「わたし」が、「いわゆる「文学」的な「話者」の典型を途方もなく逸脱してしまうという点に、『挟み撃ち』の「語り」の独特な表情というか、いかにも刺激的な背理が含まれている」。この小説を読んだ人なら、これだけで蓮實の言いたいことの大筋はわかるだろう。大筋だけでいいなら、蓮實は誰でも気づくようなことを書いた、とも言える。
 もっとも、私が『挟み撃ち』を最初に読んだ時は、とりとめもなく話題が変わりながらダラダラと続く小説だなあ、と気が付くまでにずいぶん時間がたってしまい、そのため、物語が成立しないこのダラダラ感を楽しむ前に小説はほとんど終っていた。読み終わって連想したのは、ウェーベルンの講演「十二音による作曲への道」(1932年)である。音楽の絶え間ない転調が調性の破壊につながり、二十世紀初頭に無調の音楽が誕生した、とウェーベルンは語る。絶え間ない転調をあてどない外出にたとえた次の部分は、『挟み撃ち』の主人公が御茶ノ水から蕨までダラダラと向かう感じに似ていよう。

 私は釘を打ちこもうと次室へゆきます。そこへゆきながら、いっそ外出しようという考えが浮かび、のんべんだらりと過ごし、電車に乗り、駅に来、汽車で出発して、とうとう来るのです  アメリカに! これが転調であります!(竹内豊治編訳『アントン・ウェーベルン』所収)

 この感想は私だけのものではないらしい。奥泉光いとうせいこうの「文芸漫談」が今回は「後藤明生『挟み撃ち』を読む」だった。その中で、奥泉がシェーンベルクの十二音技法と『挟み撃ち』の類比を語っていたのである。それはまた、二人が物語批判の見事さという文脈でこの小説を読んでいることでもある。つまり、三十年以上前の蓮實の論点を踏襲しているのだ。蓮實の通俗化といった内容である。
 蓮實との違いが無いわけではない。たとえば、女性を追いかける場面をくわしく語ってくれた。なにより、いまどき後藤明生『挟み撃ち』を思い出させてくれた。会場もかなり埋まったようで、うまい企画だったわけだ。また、「漫談」と銘打つだけあって、蓮實より読みやすい。まづこの対談を読んでから『挟み撃ち』に挑戦すれば、私の失敗は避けられよう。
 確認すれば、当然ながら、蓮實路線以外の読みも可能だ。たとえば、「文学界」九三年四月号の柄谷行人後藤明生の対談「文学の志」で、柄谷はふたつの指摘をしている。ひとつは、リアリズムではないのに、この小説がリアリスティックであること。「あの時期の小説で、同時代のことがこれほど書いてある小説はないだろうな」と述べている。もうひとつは難しい。柄谷は「時代がひと周りしてしまった」という言い方をしている。おそらく、一九四〇年代と一九七〇年代をないまぜに描いたこの小説が、ふたつの時代の挟み撃ちになっている状況を新鮮に描いている、ということなのだろうが、あまりくわしく議論されておらず、残念だ。