群像5月号、磯崎憲一郎「絵画」

 いくつかのブログで磯崎憲一郎「絵画」が好評である。よくわからないまま読み抜けてしまった私だが、読み返す気になった。すると、やっぱりわからない。不思議である。同じ作家が「新潮」六月号に「終の住処」を書いている。こっちは普通のスタイルだった。「絵画」は突然変異らしい。
 書き出しは、「川は崖のように急な斜面を切り取った、坂道を降りた、そのいちばん奥底を流れていた」で、以下、リアリズムを基調にした風景描写がしばらく続く。いつまでたってもお話が始まらない、無目的な風景描写だ。初読時の私のような気の短い読者は、ここでイライラしてしまう。しかし、腰を据えて読み返せば、自在のキャメラワークで描かれた名文ではないか。あまりに自在なので、「見える」や「頭上」という語を使用していながらも、描写が風景中の一人物の網膜に映った像としては成立しえないところがミソである。
 風景描写はウグイスの鳴き声を伝えて終る。そしていきなり、「まるでサメのようだ」という心内語が現れる。ウグイスがサメのよう?と読者は戸惑うが、実は、コイの群れがサメのようなのだ。これは橋から川を見下ろしてコイを眺める画家の感慨なのである。ちなみに、橋の存在はそれまで何も書かれていない。ますます、冒頭の長い風景描写の孤絶が際立つ。おまけに、この画家はひととき主人公のように振る舞うが、そのうち消えてしまう。
 あとの筋は追うまい。どうせ私の説明は、この作品の非常ぶりを繰り返すだけである。「六十歳」「三十年」「四十六億年」「五十年」という、老人、夫婦、地球、カメそれぞれの長い時間が対比されているのは確かだが、それだけではまだ読み解けない。
 この作品の題名や風景描写から連想するのは、島崎藤村千曲川のスケッチ』(1900年頃から数年の執筆)の数篇である。ただし、さきほど「リアリズムを基調にした風景描写」と書いたが、「絵画」の風景描写は代表的な自然主義のリアリズムとは異なる。『千曲川のスケッチ』は語り手の視点で統一されている。ここが「絵画」はバラバラだ。「見える」というのは誰に見えているのか、「頭上」というのは誰の頭上なのか、わからない。藤村が「絵画」を読んだら、「磯崎君は文章修行が不足しておられるようです」と思うだろう。
 この小説のリアリズムは、終りの方で女子高生が出るあたりからさらに崩れてゆく。彼女が広げているだけで誰にも読まれていない参考書の引用が続くらしき個所などがそうだが、もうひとつ、これで時間を止めてしまったかのような太陽の描写が見逃せない。

 空に浮かぶ太陽は切り抜いた紙を銀色の背景に貼り付けたように、不思議に平面的に見えた。するとその同じ平面上に、視界のすべてのものがもう一度改めてちりばめられて、配置し直されて、みな似たような白と黄色の中間の、明るい柔らかな色を帯びてしまった。

 すこし前に、サギが羽を広げる動きが、「その羽の白さで周囲を同じ色に染め上げるかのような、この場の時間を巻き戻すかのような」と書かれており、そこに予言されてもいる。この予言が太陽において成就したとき、あたりの風景は一枚の絵として固定され、時間が止まる。「四十六億年」も「五十年」も一色の永遠と化し、もはや増えも減りもしない「四十六億年」や「五十年」になる。本作の世界観を一言で言えば、歴史の終りだろうか。