「群像」一月号、蓮實重彦「映画時評」25

 先月は帰省したついでに『ゴダール・ソシアリスム』を見に行った。どんよりと見終える。『東風』とか『中国女』のほうがまだマシだったなあ。『アワーミュージック』が最後の傑作ということにしましょう。神田の古書街にも寄った。日本近代文学が小宮山書店の四階に追いやられている。昔は一階だった。吉岡実『魚藍』があった。これは持っていたような。いや、それは『昏睡季節』だったはずだ。買おう。帰省を終えて書棚を確認すると、そこにあるのは『魚藍』だった。高額書籍でこんな失敗をするのは初めてである。欲しい人が居たら五千円でもいいから譲ってあげたい。
 図書館で「群像」1月号を読む。蓮實重彦「映画時評」第二五回だ。『ゴダール・ソシアリスム』を紹介している。この連載は、身内や知り合いの関わった映画や、昔から扱ってる監督の新作ばかり取り上げてる、というのが私の印象である。論法も昔のままだ。同じギャグを繰り返すベテラン漫才師を思わせる。もちろん、蓮實はそうでなくては困る。
 映画冒頭の群青色から蓮實は始める。群青はゴダールらしくない。「誰もがただならぬ事態に立ち会ってしまったかのように、ひたすらとり乱すしかない」。昔の私はこの「誰もが」にうろたえてしまって、「さあ、おれもとり乱さないといけない」と思ったものだ。たしかに私もこの群青にはおののいた。でも、それは従来のゴダールらしさと異なるからだろうか。実際、この映画はすぐにゴダール臭くなってしまうではないか。
 わかりにくい映画だ。そりゃそうだ。そんなことではなく、物語の「流れを無理にたどろうとするより、夜の雨にぬれた甲板の向こうにそびえる楕円形の煙突を彩る黄色という色彩が黄金を思わせはするが、ほとんど意味を超えて素晴らしいと胸を躍らせる余裕を見失わずにおけばよい」。昔の私は「うん、見失わなかった」と思って安心した。確かに素晴らしい黄色だった。でも、私はどんよりと映画館を後にしたのだ。
 「フランス大革命の決定的な日付である八月四日に生まれた長女がなぜ両親を愛せないのか、目をつむったまま母親に触れようとする弟が何をしようとしているか―それを言い出せば、ディドロの『盲人日記』からアーサー・ペンの『奇跡の人』(一九六二)まで、長い回り道をせねばなるまい」。こうしたところはかなわない。『盲人日記』は題名も知らないし、『奇跡の人』は見たもののまったく思いつかなかった。映画の終りの方はなおさらで、私は「あの階段って今もそのまんまだあ」と思う程度だ。蓮實は「触れずにおく」と述べてるだけである。昔はもっと解説してほしくて、まだ見てない古い映画への欲望がかきたてられた。今の私は、階段に関してだけ言ってしまうと、「それがどうした」。
 古い映画がぞんざいに扱われた時代があったし、画面を見なくても書けるような映画評論も多かった。だから蓮實は私には新鮮だった。今はもう、あちこちのブログに蓮實ぶる鑑賞文がごろごろしてる。