十年前の「群像」を読んだ。柄谷行人と村上龍の対談。

 十年前の一月号には「群像」と「文学界」が柄谷行人の対談や鼎談を載せた。どちらも良い。NAM を始めた頃で、柄谷の発言は意気軒昂としている。それとはあまり関係無い部分を引用しよう。もちろん、NAM を始めたという文脈で語っていることではある。「群像」の「時代閉塞の突破口」で、相手は村上龍だ。

 自然主義文学史の概念で、いろいろ議論はあるけど(略)、今まで君がやってきたようなこと、他の作家も皆やっていること、これを自然主義と呼んだほうがいい。要するに、ネガティブなことだけを描く。しかし、そのことが結果的に国家への対抗になっているのだ、と。私小説もそうです。自分の病理的な世界を書く、しかし、それが同時に世界の病理であり、その「鏡」になっているのだ、というわけです。だから、、何を書いても許されるし、くだらない自己暴露が妙に評価されたりする。石川啄木が「時代閉塞」と呼んでいるのは、大逆事件後の状況ではなくて、「時代の弱点を共有する」文学の状況です。本当はその「鏡」から出ることが大切ではないか。でも、出方が難しい。第一に、それは文学的に評価されないという覚悟をしないとだめです。あのころ、それをやったのは、みんなばかにするけど、武者野小路実篤ですね。たとえば、彼は「新しき村」をやった。君の小説だって「新しき村」ですよ(笑)。

 ずっと十年前の記事を読み続けてきて思うのは、いまを考える適当な材料だということである。「新しき村」の方がNAM より続いたなあと思わせるほか、東浩紀の「思想地図」が「文学的に評価されないという覚悟」にもとづくことを連想した。また、平野啓一郎が先月号の「新潮」に書いた「フィクションの倫理」の「純文学は確かに、社会に盛られた0・01%の毒である」なんてのも「ネガティブなことだけを描く」の一例だろう。ポジティブなものは価値を認められない。たとえば、「君の小説」は『希望の国エクソダス』のことだ。村上には同時期に出た『共生虫』がある。谷崎賞を得たのは病んでる後者だったことを、二人は「自然主義」の風潮として挙げている。ポジティブとは、はっきり提示できる主題を持っている、ということだ。

柄谷 台湾の侯考賢の「非情城市」を見たときに、この人ははっきり主題を持っていて、この映画で台湾の運命を描いている。(略)とにかく、彼の主題は明白です。僕がその映画を見に行ったときに、パンフレットみたいなのを見たら、蓮實重彦が、ここのアングルは小津の引用だとか、そういうことしか書いてないんですよ。
村上 本当ですか。
柄谷 監督は明らかに、そのような主題なしにこの映画を作らなかっただろう。技術的な問題は映画監督なら当たり前のことですよ。しかし、蓮實重彦は主題など見るのは素人だ、おれはそんなバカではないという感じで書いていた。しかし、アングルがどうのこうのなんて、そんなもの映画をつくっている人間から見たらカスみたいな話ですよ。(略)小説でも同じことですが。日本の映画がなぜだめかというと、主題がないからだ、(略)。
村上 主題を否定することで、何かそこに価値があるという倒錯は至るところにありますね。

 柄谷が読んだ蓮實の文章は『映画に目が眩んで』に入ってるやつだろうか。だとしたら、ちょっと不当な気がする。むしろ、私が前回の更新で扱った『ゴダール・ソシアリスム』の時評にふさわしい。更新した直後にこの対談を読んでやっと自分の不満に納得のいった次第である。
 似たようなことを柄谷は講演か対談などで発言していたはずだ。何だったか忘れた。とにかく、批評家が小説に関して描写など技術的な点を論ずる必要は無い、技術的なことなら小説家の方がずっと詳しい、批評家の仕事は考えることなのだ、という話だった。渡部直己みたいなのを批判したんだろうか。私は、クラシック音楽の批評家が演奏や録音の技術について専門的なこと書いたのを読まされるのが不愉快である。