村上龍『希望の国のエクソダス』(二〇〇〇)

 前回とりあげた対談で、「文学的に評価されないという覚悟をしないとだめです」という柄谷行人の発言に納得してしまった。さっそく、この対談で例にされていた『希望の国エクソダス』を読んだ。たしかに文学的ではない。男の大衆作家がよくやるような、社会をニヒルに批評する比喩つきのセリフばかり言う「おれ」が主人公だ。「日本経済はまるでゆっくりと死んでいく患者のように力を失い続けてきたが(略)今や、おれみたいなごく平凡なジャーナリストを含めて大半の日本人がそういったことに気がついていた」。いや、これはむしろ「文学的」な例であって、この小説の「だめ」な部分だろうな。柄谷が言いたかったのは、「はっきりとした主題を持つ」ということだった。
 この点については、村上龍本人がこんなことを言っている。『希望の国エクソダス』刊行直前の「文学界」七月号「芥川賞と文学の未来形」だ。次の「援助交際やひきこもり」を「中学生の登校拒否」に置き換えれば『希望の国エクソダス』の話になる。

 僕は援助交際やひきこもりや少年犯罪といった事象そのものにモチベーションを得て『ラブ&ポップ』や『共生虫』を書いたのではなくて、それが起こったときのメディアや言論界の反応の仕方と、実際の援助交際やひきこもりの現実の間に感じたギャップ、違和感を核にして小説を書いたんだと気づいたんです。

 既成のメディアに登校拒否を扱わせると、「すぐに「どうなる、どうする日本の教育」みたいな伝え方になってしまう」と村上は言う。そんな大人たちに対して、『希望の国エクソダス』の中学生は、「今、約八十万人の中学生が不登校になっているわけです。それで、学校に行かなくなった理由ですが、約八十万種類あるわけなんです」と切り返すのだ。村上は、「まさにその通りで自分でゲラを読み直していいこと言うなあと感心しました」と自賛している。
 こんな中学生たちが、コンピュータやインターネットの技術を駆使して、たくさんつながってゆく。そして、事業を興し、巨万の富を得て、その経済力をもって最後は北海道に一種の独立国を立ち上げる。そんな小説だ。柄谷が「新しき村」にたとえたのがわかった。まあ、ありえない物語だ。それは、中学生たちがぜんぜん中学生らしく書けてないし、世界情勢、金融、法律、情報技術の知識と成熟した危機管理意識を兼ね備えた中学生なんて、もともと書きようもなかったであろう点に明瞭である。
 そんな中学生たちを観察して、「おれ」は期待と疑問を繰り返しながら、「新しき村」に最後まで違和感を捨てきれずに小説は終わる。この結末について、同年の「文学界」八月号「「日本」からのエクソダス」(小熊英二との対談)で作者は語っている。中学生たちに「成功させてあげたい」という願いを持って彼は書いていたし、その反面、中学生たちの事業が「完全に勝利してしまっても、どこか勘違いされる恐れがあった」、とのこと。作家としてのそんな迷いは嫌いぢゃない。
 それとは別に読者としての感想を言うと、「おれ」の違和感は、この小説の中学生たちの「ありえない」感じに対するものだ。「文学的」な「おれ」に辟易しながら読み続けて、最後のここは立派に文学的であった。