閑話。

 いろんなブログの感想文を読んでいると、高評価の規準に「よみやすい」というのが多い。慣れ親しんだ価値観や世界観が良いんです、ということだろう。そんな、読まなくてもわかってるようなことを、わざわざ時間をかけて読書する、という彼らの感覚が私にはわからない。他者の論理に出会う、という柄谷行人式文学観から抜けきれない、私の八〇年代的な古さである。読みにくいものを好む私の方こそ、慣れ親しんだ価値観や世界観にしがみついている、という面もありそうだ。「よみやすいもの」の新しさを見落としているのである。嫁からセカイ系の感覚を伝授されたり、今年になって東浩紀大塚英志の評論を読むようになったりして、それは思い知った。
 とは言え、よみやすきゃあいい、ってもんでもなかろう。思潮社現代詩手帖」八月号は創刊50年祭「これからの詩どうなる」の模様を伝えていた。六〇年代の昔から、思潮社は似たような催しを何度もしてきた。お抱え詩人をずらっと並べたシンポジウムである。祭りだから、盛況にさえなれば中味はどうでもよく、深い議論にはなりようがない。それでも、荒川洋治の発言が目にとまった。いまの日本は詩が片隅に追いやられ、九九パーセントが散文だ、と言うのである。

 散文というのは結局のところ「私はここで水を飲んでいる」という文章であれば、それはどこの国でも通用するわけで、人々に伝えるという伝達、あるいは記録のために結局のところ自分の内心の声をセーブして押さえ込んで放たれる言語だと思うんですね。(略)コミュニケーションのために、それがどれほどのコミュニケーションになるのかあやしいものだけれども、表面的なコミュニケーションを作るためかもしれないけれども、ともかく散文というのは作られたものであり、異常なものだと思います。

 コミュニケーションしやすい「よみやすい」散文を批判した発言と見るべきだ。「詩というのは個人の内発的なものをそのまま裸の言語で出します」とも語っている。こうした言語観は吉本隆明『言語にとって美とはなにか』の通俗版ではあろう。詩の消滅を危惧する荒川の論理は、内面の消失をもって近代文学の終焉を説いた柄谷行人とも通ずるところがある。内面の言葉を守るべきであり、守れるはずだ、と荒川が考えている点が異なるくらいだ。
 小林よしのりが『ゴーマニズム』のどこかで、ポストモダン哲学書は「わしには詩のようなもので、ぴんとこなかった」という意味のことを言っていた。そう、デリダフーコー、バルトの読みにくい散文は、荒川発言的にはむしろ詩に近い。日本では宮川淳蓮實重彦が代表だろう。そういえば、『近代日本の批評』で蓮實は「宮川淳の最大の欠陥は、批評家でありながら散文が書けなかったこと」なんて言ってたな。3月18日の読売新聞では、ネットなどで目に付く映画評は「読むと、どれも同じ文体に見える。ネットに書くということで、同一性が生まれてしまうのか。文体的に際立つ人が非常に少なくなっている」と語り、「挑発的な文章が必要である」と締めている。私はいま散漫な連想を並べてるだけだが、ただ、内面を守りたいわけではない。
 なんでデリダは奇妙なのか、東浩紀存在論的、郵便的』はそれを論じた。奇妙に書くしか無い事情があるのだ。読みにくい散文を擁護したわけである。さて、現在の浩紀が別人であることは誰にでもわかる。「文学界」の連載「なんとなく、考える」で十月号には「よい文章は批評に必要ない」と書いた。「よみやすい批評のススメ」である。「よみやすさ」の需要に応じなければ批評は時代に合わず滅んでしまう、と彼は考えている。また、引用は省くが、これからの批評家は自分をキャラクターとしてもアピールすることが必要、と私は読んだ部分がある。テレビのコメンテーターみたいなものだろう。茂木健一郎とか高木美保が浮かぶ。浩紀が批評を救おうと動く時、私には彼が救い難く見える。
 ちょうど大塚英志『「おたく」の精神史』を読み終わったところだ。そこで言及されていた懐かしい文章を思い出した。「現代詩手帖」八五年四月号の蓮實重彦「<アイ>前=<アイ>後現象の不気味なひたむきさについて」である。<アイ>とは「アイドル」の略で、蓮實は批評家のアイドル化を論じた。他ならぬ自分が「ひたむきに」アイドルを演じてしまった後悔が、彼にこれを書かせている。アイドル化は避けがたい。「それはいいことでも悪いことでもない、一つの現実なのである」と当時から彼は書いていた。とはいえ、不気味さを感じている蓮實は自分の「ひたむき」を後悔する。浩紀の「批評を救え運動」の「ひたむき」にはそれが無い。不気味、とは言わないが可哀想である。
 「よみやすい」種のアニメにもラノベにも面白いものはある。それらはきっと、それまでの作家なら格闘して書きこんでいたであろう部分を省くので読みやすいのだろう。その作品に格闘に価する問題が無いわけではない、ということだ。それではしかし、省略部分に実感の無い私のような他者には伝わらない。『ゲーム的リアリズムの誕生』や『キャラクター小説の作り方』を読んで、やっと私は面白さがわかった。そんな本を書いてくれる人たちが批評家であって、批評家自身が読みやすくなって生き残ろうとするのは筋違いである。