古井由吉『漱石の漢詩を読む』

 吉川幸次郎漱石詩注』は岩波文庫に入っているが、二十数年前は岩波新書だった。そして品切れだった。古本屋で三千円もしたものである。なんとか安いのを見つけて買えた時はうれしかった。しかし、読んでもよくわからない。『漱石詩注注』があればなあ、と思ったものだ。そんな本が吉川から四十一年たって出た。昨年刊行の古井由吉漱石漢詩を読む』である。由吉が吉川の注を使って漱石詩を観賞してくれた。
 ちなみに、古井由吉は詩とよく関る小説家である。二〇〇六年の『詩への小路』を知る人は多かろう。私が思い出せるいちばん古い例は一九八四年に粟津則雄、入沢康夫渋沢孝輔中上健次なんかと書肆山田で始めた同人誌「潭」である。
 本書は気楽に読める語りで構成されているが、根底には、日本人が漢詩文の伝統を失ったことへの危機感がある。「日本語とは、変換のエネルギーがないと衰えてしまう言語なのです」。

 私たち日本人の言語生活は、いってみれば常なる変換なのです。漢字と仮名がある。仮名で発想したものを、漢字に変換する。漢字で発想したものを、仮名に移す。これは何も、ものを書く場合だけではなくて、会話する場合にも、常にこの変換をやっているわけです。

 さしづめ、漢語の少ない若手の小説などは衰えた日本語の好例かもしれない。「しかし」と、彼はいちばん最後に言っている、「そんな文明に対する使命感や義務感から漢文を読み始めるのは、まことに殺風景、荒涼としたものです」。とりあえず、この気楽な読み物を装った一冊を楽しみたい。
 『明暗』を書きながら夏目漱石漢詩も作っていたのは有名な話だ。ただ、なんでそんなことをしたのか、あんまり納得できる説が無い。本書での由吉の説は、「小説を書くことによって、溜まった垢や灰汁を、漢詩をつくることによって洗い流す」。これだけでは凡庸に思えるが、漢詩の「私」は近代の「私」と違うのだ、という話と併せて聞くと「洗い流す」の含蓄を垣間見られよう。

 漢詩を作ることによって自分という一個の存在を離れられる、ということがある。隠遁者にもなれるし、あるいは仙人のような者にもなれる。さらには、底抜けの諧謔者にもなれるかと思うと、俗縁にがんじがらめの人間にもなれる。私たちのように、一つの個を強制されているのとは違うのです。近代の文学は、どうしても一つの個を提示しなければならない。それに対して、漢詩では包括的な自我を表せる。歴史的な自我も表せる。

 古井由吉は「新潮」で連作の短編を書いており、それが八月号の「やすらい花」で完結した。面白いのは、この連作の初期が、本書の漢詩観賞の時期と重なることだ。由吉はいわば漱石にならい、漢詩文に親しみながら小説を書いてたことになる。そして、「これはなかなか都合が悪いものです」と言っている。自分の場合は小説が書きにくくなってしまったらしい。