群像7月号、田中慎弥「犬と鴉」

 十月号が出ている世間に向けて七月号を書くのは気が引けるが、たった三〇ページ強のこの小説は、ちゃんと読むのに時間がかかったのである。読みにくいったらありゃしない。作品として主題を読むなら、つまり、なに言いたいんだよ、というレベルなら、「群像」八月号「創作合評」の都甲幸治の解釈で納得できた。他の合評者もほぼ合意している。一言でいえば、しっかり死ぬためにはそれなりのプロセスが必要だ、ということである。この場合のプロセスとは、悲しみを味わうということだろう。つまらん。それは画布の下塗りのようなもので、わざわざ観賞しなくてもいい。表面に目に見える筆遣いが難しいのである。つまり、文章がわからないのだ。
 辻褄の合わないところがいくらでもある。図書館が重要な舞台で、最初、人々はそこに食糧を期待して集まったものの、「あるのは言葉ばかりでがっかりした」。しかし、しばらく読み進めると、人々はそこに「硬いパンなど日持ちのする食糧を(略)運び込んでいたのだ」とある。また、逆説的な主張が多い。たとえば、祖母の存在は「いないことでしかいることを確かめられない」。他の例では、「事実は無視するに限る。無視されてこそ、事実はいっそうの事実となって存在を主張するだろう」など。初めて試みるゲームの設定やルールを学ぶ者は、それらの根拠を問うたりせず、ひたすら受け入れるしかない。この小説の読者が強いられるのはそうした状況だ。個々の描写や主張が意味不明でも、都甲解釈の説得力に証明されるとおり、全体としてまとまった物語を構成しているのだから、ゲームは成立している。
 悲しみを味わうことによって主人公はちゃんと死ななくてはならない。それがこのゲームの課題だ。主人公は餓死寸前なのだが、食糧不足によってだけでは死ねない。悲しまなくては。そして、悲しみというアイテムを得るには父の死が必要である、というルールだ。その際、泣く、とか、心が痛む、とかそんな実体ある悲しみ、悲しみのリアリティは一切問われない。アイテムとしての悲しみとはそういうニュアンスである。
 主人公は病人として設定されている。「創作合評」で町田康が「悲しみを感じられない病気ではないか」と言っていた。実は悲しみだけではない。痛みや喜びなど感覚や感情を自分の身体において生き生きと感じられる場面が、小説の前半には乏しいのである。身体感覚の希薄な主人公だ。それが後半から結末にかけて豊かになってゆく。見逃すべきでない転換点は、主人公が父の死の実現に初めて期待した瞬間の一節である、「腹がけたたましく鳴った。悲しみの予感に体が喜んでいる」。ゲームの終りを垣間見た時が身体の回復の始まりなのだ。そこから急に小説は読みやすくなるように思われる。いわば、前半のゲーム的リアリズムポストモダンが、後半には慣れ親しんだ近代文学にうってかわる。これは土着回帰の反動的な小説なのかもしれない。