大江健三郎『水死』読了

 「死んだ犬」を投げつける演劇の上演をめぐって対立する賛成派と反対派を見ている作家の小説、ということだろうか。その場合、作家と息子との不和がどう関わるのかよくわからない。大江健三郎個人の事情なんだろう。「読売新聞」の時評(一二月二九日)の「大江作品では、父子関係がいわば物語生成の揺るぎないシステムとして機能してきた。本作で、それは破壊される」という指摘が正しそうだ。たとえば、右翼と左翼で言えば大江は左翼を応援してきた作家だけど、この小説では右翼でも好意的に描かれる人物がいる。また、大江は自分が戦後の教育の恩恵を受けたことを肯定的に認めているけれど、この小説の悪役は教育委員会や教育関係の高級官僚だ。つまり、父子関係に限らず大江システムが壊れている。大江健三郎にたいした思い入れの無い人にはどうでもいいことだろう。大江だってそういう人に向けて書くつもりは無かったろう。
 三浦雅士が「毎日新聞」の書評(二月七日)や「文学界」三月号で登場人物を分類している。上演賛成派のウナイコは左翼であり、戦後民主主義の隠喩である。好意的に描かれる右翼の大黄は国粋主義の隠喩である。前者については前に書いた。彼女の演劇は、観客が参加して、不満をおぼえた発言者には「死んだ犬」を投げつけていい。再掲すると、

 発言者には反対派から「死んだ犬」が投げつけられる。時にはたくさん投げつけられる。問題発言には容赦無く降り注ぐ。誰が投げたか、それはわからない。ブログや掲示板が炎上する様そのものではないか。大江健三郎の想像力もインターネットの世界をなぞるようになってる、と思った。

 最近の選挙や東浩紀「一般意志2・0」など、ネットを使う民主主義が目立ってきた。三浦が正しいなら(正しいだろう)、「犬の死体」は戦後民主主義のなれのはてだ、としか私には思えない。大江像のかぶる主人公作家は突っ走るウナイコをコントロールできなくなっている。また、小説の一番最後の一文の大黄のイメージも戦後の喩に見える。「樹木のもっとも濃い葉叢のたたえている雨水に顔を突っ込んで、立ったまま水死するだけだ」。
  わたしの屍体を地に寝かすな
  おまえたちの死は
  地に休むことができない
  わたしの屍体は
  立棺のなかにおさめて
  直立させよ

田村隆一「立棺」

 この戦後詩をどうしても想起してしまうのである。三浦は、大黄について「国粋主義は自身で結末をつけ」た、と解釈する(「毎日新聞」)。しかし、「立ったまま」の水死とは、「地上にはわれわれの墓がない」「地上にはわれわれの国がない」(「立棺」)という、むしろ成仏できない意味合いで読んでおきたい。