早稲田文学、第三号、中沢忠之「メタフィクション批判宣言」

 鹿島田真希『ゼロの王国』の書評や紹介をネットでいくつか見た。「産経ニュース」(六月二一日)を例にとろう。 榎本正樹が書いた。「鹿島田はデビュー以来一貫して「聖なる愚者」を重要な人物モデルとして描き続けてきた」「吉田青年の回心のプロセスを通して、現代人の精神の本質を問うている」「長大な物語をナビゲートするのが、「筆者」として登場する語り手である。軽妙な口ぶりで読者を魅了する人格化された語り手は、隠されたもう一人の登場人物であり、その存在は作品の奥行きを深めている」。そつなくまとまっている。「読売新聞」(六月一日)からも引用しておく、「地の文はほとんどなく、マンガの吹き出しが連なっていくような感覚で小説は展開する」(山内則史)。これも良い記事だ。けれど、と言わねばならない。こうした新聞記事の形式では扱えない部分にこの小説の本質がありそうだ。私の読んだ『ゼロの王国』と何か違う。「現代人の精神の本質」とか「マンガ」的な感覚とか、間違ってはいないが、どうでもいい要素だと思う。
 中沢忠之の鹿島田真希論を読んですこしすっきりした。彼が掘り下げたのは、「語り手」の存在や「地の文はほとんどなく」といった特徴について、つまり、ナレーションの問題である。「本作は、複数のキャラクターが関係するフィクションを、ナレーション(地の文)の支えをきょくりょく受けずに成立させるという、文学史上比較的稀な形式を持つ作品である」。語り手は各章で冒頭と末尾のあいさつを務めるだけだ。舞台の外に居る。「ここで鹿島田が試みたのは、フィクションと同期しないナレーションを際立たせ、それによってフィクションの前後を囲い込むこと」。

 この非同期的なナレーションの囲い込みがフィクションから奥行きを奪い、純粋にキャラクターが関係する平面として際立てられるのである。そこはキャラクターが各自深みのある内面を抱いて関係する再現的な空間ではなく、与えられたテーマをきっかけにしてキャラクターが各々の役割を演じる寓意的な舞台といった様相を呈するだろう。
 以上の演出によって、吉田青年は「聖なる愚か者」という純粋なキャラクターとしての持ち味を最大限に発揮することが可能となる。

 この論文は鹿島田論それ自体を主眼にしたものではない。「一九八〇年代から九〇年代に注目を集めた物語批判の批評、及びそれにのっとったメタフィクション志向の小説」を乗り越える「メタフィクション批判」が狙いである。「目指すべきなのは、ナレーションの単なる抑圧ではない方法での、メタフィクション批判と言うことになるだろう」。どうも最近の批評家は八〇年代の物語批判を、物語のメタレベルに立つこととして理解しているらしい。前にも書いたが、八〇年代に大学生だった者としては、どうしてもそこに違和感がある。メタフィクションに私は詳しくない。でも、「それにのっとった」という説明に納得することはきっと無いだろう。だから、それの「批判」にもピンとこなかった。