ised(情報社会の倫理と設計)設計篇

 国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)の東浩紀研究室(06/08/01,解散)が二〇〇四年から翌年にかけて運営していたシンポジウム「情報社会の倫理と設計についての学際的研究」(Interdisciplinary Studies on Ethics and Design of Information Society)全十四回の議事録である。「倫理篇」と「設計篇」の二巻に分かれている。どっちも五〇〇頁近い。これで一冊三〇〇〇円弱というのは頑張ってる。ひとまづ「設計篇」だけ読んだ。
 果てしない未来を情報技術の観点から奔放に議論するものか、と予想していたら実際は、情報社会における組織の改善策がしばしば話題の中心になっていた。われわれが自分の職場で「会議って無駄に長いよなあ」「部署と部署の交流が無いよ」「必要の無い出張を減らせないもんかね」とか愚痴り合ってることを、情報機器の進歩と普及があれば建設的に考えられるはずだ、という印象である。
 本書の議論よりも、そうした議論の傾向を批判する発言の方が切実に響いた。その多くは東浩紀の役回りである。昔のSFと今の社会を比べると、たとえば、有人の宇宙船が木星に向かう『2001年宇宙の旅』は現実の宇宙開発よりも進んでいる。しかし、コミュニケーションの手法は現実の社会の方が高度だ。逆に言うと、本書のような討論はコミュニケーションの話に偏りがちだ。そんな指摘の数々である。
 もちろん、改善でなくもっと革命的なことを目指した本だ。東が「本」で連載中の「一般意志2.0」に先立つ議論も出てくる。その流れで固有名が話題になったりするあたりはハッとした。『存在論的、郵便的』から続く問題も含まれる。東が指摘した二点のうち後者だけでも引用しておく。

 例えば、私たちは集団で日本社会を運営していると思っています。しかし、いざ問題が起きると「トップに立っている人間が悪い」と言います。これは変です。民主主義の理念では、皆が責任を持っていることになっている。しかし、皆が持つ責任は結局無責任でしかない。責任を問うためには固有名が必要なのです。「社会がこうなっているのは小泉首相が悪いからだ」と言うように、私たちは固有名を立てないと異議申し立てができない。そこで、固有名を持たない=分散型の意志集約装置を採用しながらも、中核には固有名を持つ=ツリー型組織構造をも維持している。それが近代社会だと思います。

 簡単な例が挙がっている。喫茶店のコーヒーの値段には、生産者、輸入業者、喫茶店などに払う分が含まれている、とする。同様、責任も分散させてしまうと、コーヒーがまづかった場合、「固有名を立てないと異議申し立てができない」。店員の淹れ方が悪かったということなど、まづい原因のほんの一部分でしかない、という主張が通りかねないからだ。分散した諸関連をどこかで断ち切って、店や店員の責任を問えないと、社会は動かない。「この責任という切断の装置」が固有名なのである。
 これが良い例かどうかは考えた方がいいかもしれない。考えるに値すると思う。そう言えば、並行世界に分散した責任の問題は『クォンタム・ファミリーズ』でも扱われていた。とにかく分厚い本なので、「おや」っと思わせたことはいろいろある。