吉田健一『詩と近代』(1975)冒頭

 まづ近代の特徴から入る。めんどくさいから、彼の旧字旧仮名は踏襲しない。「その性格はある集団が文明に達したことがさらに精神を刺激してその一層の働きを促した結果がその働きという形で認められるにいたり、それがどういう形のものでも受け入れられながらこれが精神の働きであることだけは必要であってこうして極めて自由であるとともにその働きを妨げることばかりは決して許されないという一つの開けた態度が普及することに存する」。こう考えると、日本に近代は何度かあったことになる。紫式部藤原定家与謝蕪村三好達治の書いたものが証拠だ。ところが、ヨーロッパには一回しか無い。それが、他の近代をさしおいてヨーロッパの近代を特権的に扱う一因になっている。
 近代にはもうひとつ特徴がある。「これは恒久的にただそれだけで持続することができる状態でなくて他の状態から生じて再び近代でない状態のうちに収拾されなければならないものなのである」。つまり、近代は終りをはらむのだ。例として三好達治を挙げている。「これは近代詩人であるよりもそれであることから出発した詩人だった。(略)しかしその晩年に達した境地での作は少なくともいわゆる、近代詩の領域をはるかに越えていてそこに一人の大詩人を見ることになる」。近代人がしばしば終末観を抱くのは故なきことではない。
 そして、近代はごく最近に終ったようだ。べつにそれで詩や世界が終るわけではない。伝統がひとつ加わったのである。「興味があるのはこの伝統に即してこれからの日本の詩がどのような成果を収めるかということである」。以上、「文学の終り」「歴史の終り」「大きな物語の終り」等々の新しい理論に比して格段に新鮮な評論であった。正しいのか出鱈目なのか、判断するには私の教養ははるかに超えられている。一九七五年の時点でポストモダンの意識を持ったというのは、リオタールの本より四年早い。