「新潮」3月号、星野智幸「俺俺」最終回

 文学の終りをテーマに始めたこのブログは、『1Q84』や『クォンタム・ファミリーズ』(「ファントム、クォンタム」)を話題にしてるうちに、だんだん「複数の世界」や「複数の私」も気にするようになってきた。昨年は、並行世界とか、もう一人の自分とか、そんな小説が目立ったのである。そんなの昔っからだよ、と言われても反論するつもりは無い。ただ、並行世界なんて出てこない川上未映子『ヘヴン』にさえ、いかにも出てこない小説として、「ここ以外に僕たちに選べる世界なんてどこにもなかった」という一節が現れる。すると、やっぱり、気になってしまう。
 そんなわけで、「新潮」三月号で連載の終わった星野智幸「俺俺」はちょこちょこ読んでいた。ひょんなことから主人公にもう一人の自分が現れる。さらにもう一人現れる。ついで、身の回りは自分であふれ、しまいには世の中の人々全員が自分になってしまう。ここまでの七回はそんな展開だ。『1Q84』や『クォンタム・ファミリーズ』における「複数の私」は「自分の別の人生」という主題と結びついていた。対して、「俺俺」の主題は「他人と同じ人生」である。均質化した現代社会、たとえば、同じような無表情の顔がひしめく満員の通勤電車のイメージだ。「昔っからだよ」と言われるのが、こうしたタイプの小説なら同意できる。最終回は「自分を見失った主人公は放浪の末、ほんとの自分を回復する」という物語の定型をなぞってあっけなく終わってしまった。『ドーン』の分人主義の現代性と比べてみればいい。
 つけたし。メモとして引用を残しておく。星野のブログ「言ってしまえばよかったのに日記」の一月一五日には、「ハイチの地震が気になって仕方がない」という一文で始まり、後にこんな記述がある。

 私はここ数年、日本社会を目に見えない戦場として考えてきた(そしてそれを「無間道」「俺俺」といった小説に書いている)。平和に日常が送られているように見えて、他国との戦争でも内戦でもない、得体の知れない戦争が進行しているのが、この社会なのではないか、と。それを、目に見える形にしてみたら、とても正視できないようなことが起きているのではないか。その氷山の一角が、3万人を越える自殺者が11年も連続しているという事実だ。ハイチの地震は、死者5万人とも10万人を越えるとも言われている。その数字と比べると、3万人の自殺者という事実がどれほどおぞましいか、少し実感できる。
 ハイチの地震は、脆弱なインフラ、災害時の対策の手薄さにより、その被害の拡大は人災によるものだと言える。この人災は、ハイチという国家だけが負うものではない。アフガニスタンがああなったように、そこには、世界からの無視という要因がある。無視が人災を招く。日本社会の自殺の多さも、かれらが目に見えない存在になっているせいでもある。

 正直なところ、「目に見えない戦場としての日本社会」が「俺俺」に描かれている、というのは私にはピンとこなかった。