オルハン・パムク『白い城』(宮下、宮下訳)

 一九八五年のトルコの小説が昨年の十二月に翻訳されて出た。舞台は十七世紀後半オスマントルコイスタンブールだ。主人公が一人称で語る回想記である。彼はイタリア人だ。物語は、彼が海賊に捕われ、「師」の奴隷になるところから始まる。ただの奴隷ではない。トルコ宮廷における師の出世をかなえる有能な助手である。私としては珍しくネタバレを避けつつ言うと、主人公と師の人間関係が特殊な小説だ。いや、やっぱり書いてしまおう。主人公と師はうりふたつのそっくりさんなのである。彼らにさえ見わけがつかなくなるほどだ。つまり、これも「複数の私」がテーマなのである。トルコでは二十五年前から書かれていたらしい。
 一回読んだだけの思いつきを。この回想記の手稿は主人公ではなく師が書いた、とは読めないだろうか。手稿は師の創作かな、と。これを書くことによって彼は自分のデータをイタリア人に書き変えてしまった。SF仕立ての『クォンタム・ファミリーズ』が量子コンピュータによって行った並行世界間の人格交換を、『白い城』は紙とインクで果たしてしまったわけだ。いささか無理な解釈かもしれない。でも、前回の更新でふれたような「自分の別の人生」に取り憑かれた男の小説として読むこと自体は、そんなにはずれてないだろう。