二〇年前の「中央公論」で宮台真司を読んだ。

 一九九四年の宮台真司『制服少女たちの選択』は二部に分かれている。ブルセラ論争に関するものは第一部だ。第二部は「中央公論」一九九〇年十月と十一月号の「新人類とオタクの世紀末を解く」を書き直したものである。『制服少女』の第六章が十月号で、第七、八章が十一月号だ。十一月号のが大きく書き換えられている。『制服少女』の「あとがき」によると、もともとは一九八九年に書かれたものを「収録にあたっては、時期遅れになった部分を中心に書きかえてある」とのこと。この本、第一部だけざっと見て馬鹿馬鹿しくなって、ほったらかしにしていた。第二部を読まずにいたのはもったいないことであった。
 十月号(第六章)で私の好みに合うのは冒頭部である。「高度消費社会を見下ろす高みには立てない」ということだ。いまどき誰もメタレベルには立てない、ということだろう。宮台は「ダンディズムの不可能性」と言う。むかしなら、テレビと洗濯機と冷蔵庫をそろえれば人並だという物語が共有されていた。だから、くわしくは宮台を読んでもらうとして、単純化して言うと、あえてテレビを見ない男はダンディだったわけである。あえてテレビを見ない彼は社会にどっぷり浸からぬ高みに立てた。それが高度消費社会ではできなくなる。物語が個々人で多様化してしまった。すると物語に従わないダンディがごろごろあふれて有難味が無くなるんだろう。携帯を使わぬダンディ、ネットに興味を示さぬダンディ、英会話しないダンディ、などなど低レベルのダンディたち。多様化した結果、若者のコミュニケーションはそれぞれ分断された小グループ内に限定されてゆく。それが宮台の結論だ。小グループを「中央公論」では「オタクループ」と呼び、それを『制服少女』では「島宇宙」と変えた。
 一か所だけ十月号の原稿は目立つ修正を加えられている。宮台は八〇年代の新人類とオタクの類似を指摘する。前者は現実をフィクションとして生き、後者は現実ではないフィクションを生きる。つまり、「共にフィクション形成の母体として、メディアならびに高度技術社会を、不可欠としている。だがそこには、現実を透明化・有意味化するためのシステム・ツールの有無という大きな差異が、潜在しているのだ」(「中央公論」)。再び単純化して言うと、現代に当てはめれば、コンピュータで得た情報を利用してオシャレに生きる方法を持つ者と、それを持たぬままコンピュータを相手にひきこもる者とは、コンピュータを前提とする点で似ており、反面、その活用術において「大きな差異がある」ということだろう。この「大きな差異」が『制服少女』第六章では修正され、「両者をわけているのは、現実を透明化・有意味化するためのシステム・リソースの有無であるにすぎない」となった。類似点だけが強調されたわけである。宮台は、新人類とオタクの差異が無くなって今はみんながオタク化した、と話をまとめてゆく。それは「中央公論」も『制服少女』も同じだ。だから、修正した方が彼の論旨に都合が良くなったのは確かである。
 大きく改稿されたのは十一月号である。わかりやすく補筆された部分や、一九九三年の『サブカルチャー神話解体』の、たとえば第1章第2節「「かわいいコミュニケーション」分析篇」の成果が追加された部分が目立つ。ただし大筋は変わらない。「中央公論」も『制服少女』も最後は「社会学的啓蒙マニュフェスト」で終わる。「システムの作動をできる限り先回りすることがめざされる」というやつだ。ここを読んで、『ised(設計篇)』の「無限のメタ化をめぐる問題」を連想した。東浩紀がこんな発言をしている。

 僕が言いたいのは、欲望のシステムの話です。(略)「いいものだから人は欲望する」という次の段階に、「他人が欲望しているから自分も欲望する」という段階がある。ここまではいい。しかし、人間はそんなにメタ構造には耐えられない。「他人を欲望する、他人を欲望する他人を欲望する、その他人を欲望する他人を……」という無限のメタ化が始まれば、そこにはもうシニシズムは存在せず、隣が何か書いているから、とりあえず自分もリンク張っておくか、という動物的な反応にならざるをえない。

 「メタ化」は宮台の「先回り」にあたるだろう。すると、これは「社会学的啓蒙」の不可能性を指摘した一節だ、と私には読める。もちろん、宮台だって無限の先回りを提唱しているわけではない。「論理的には終わりがないこうしたプロセスは、限界効用が逓減するまでつづけられる」と述べてはいる(『制服少女』、ただし「中央公論」でもほぼ同じ)。