神無月の一番、高岡修『幻語空間』

 こないだ読んだ『阿部和重対談集』(二〇〇五年)で高橋源一郎がこう言っている、「現代詩がどうしてデッドロックに乗り上げたかというと、それは完璧主義と「新しくなければいけない」という規範のせいです。そして、これはモダニズムの考え方そのものなんです。モダニズムは必ず表現上のモラリズムに転化します。それは縛るモラリズムであって、決して人を解放するモラリズムではない」(「あたらしいぞ私達は。」一九九七年)。これは目からウロコであった。私は、ここ何十年も新しい言葉が出ないから現代詩は終わったのだ、と思っていたのである。ぢゃあモダニズム以外のどんな判断基準を私が持っているか、というと何も無い気がする。とにかくこれからは新刊の詩集を読んだとき、「こいつ古い」を理由に馬鹿にするのはやめてみよう。
 高岡修がその適応例の第一である。『犀』(二〇〇四年)の「犀」は「差異」に通ずるとか、「言語空間」をひねって『幻語空間』とか、陳腐な言葉遊びにはうんざりした。ところが詩集の中身は悪くない。すごいかもしれないと思い始め、とうとう『高岡修全詩集1963〜2003』まで買ってしまった。全詩集が出る五十五歳までほぼ無名ながら、第一詩集『晩餐図』(一九八六年)ですでに作風ははっきりしてる。
  子供たちは死んだら、
  毛蟹になる。
  石と石のあいだの、
  くらい世界に棲む。
  いつもひつそりとしているが、
  死んでもなお食べるものが必要なので、
  石と石のあいだのくらがりから現れては、
  もののにおいを食べる。
  だがいちど死んでいるので、
  食べても食べても、
  満ちることがない。
  (「毛蟹」冒頭「一月」全)
 とは言え、こんなのは見覚えがある。吉岡実だ。「現代詩文庫」の解説で城戸朱里も言っている。彼はほかに田村隆一の影響も指摘する。私はあちこちで石原吉郎ふうの断言も見つけた。たとえば第四詩集『二十項目の分類のためのエスキス・ほか』(一九八九年)から、
  死んだ手もまた
  土のなかふかくしまわれる
  右手であろうと
  左手であろうと
  おなじである
  というより
  死んでしまえば右も左もない
  機能をうしなつた手は
  ほんとうのことを言えば
  もはや手とは呼べないものである。
  (「死んだ手を考察するためのエスキス」冒頭)
 そのまま読んでも古いし、「右手左手」が右翼左翼のことなら、なおさらである。こうした古さはまさに「デッドロックに乗り上げた」モダニズムのなれの果ての一典型だ。この詩人はそこから始めたのだ。最新の『幻語空間』でも変わっていない。熟練しつつ乗り上げたまんま、と私には見える。それが嫌なら、岸田将幸のような極端な息苦しさを引き受けるか、こないだ高橋が熱烈に支持を表明した大江麻衣のような軽さを装うしか無い。それもモダニズムのなれの果てだ。
  僕らはいつも
  世界の果てにいる
  バス停に立っていても
  喫茶店の窓ぎわに坐っていても
  そこは
  ふいの崖であり
  ふいの奈落である

  一日の消尽点に達すると
  崖と崖との境が無くなってしまうので
  僕らはいっせいに
  世界の果てを墜ちる
  それでも
  永遠とも思えるほどの時間をかけて
  何とか這い上がるのだが
  そこはもう
  僕らの見知らぬ
  別の世界の果てである
 短いのを何か全編引用したくて「世界の果て」を。こんな詩について「古さ」しか語れない私がどうかしてる。つくづくモダニズムに浸かって疑わずにいた自分を思う。