「新潮」8月号〜11月号、長野まゆみ「デカルコマニア」

 並行世界ものが流行るのは、並行世界それ自体が流行っているわけではない。複数の世界や複数の私が流行っているわけで、それはまた、複数の世界がひとつの世界だったり、複数の人が私ひとりだったり、なんてことでもある。そのややこしさは長野まゆみ「デカルコマニア」にも感じた。並行世界によってではなく、もっと古典的なタイムマシンによって、あるいは、もっと陳腐な設定によって、世界や私の複数性が描かれている。正直なところ、四か月の連載でこつこつ読んだ私には、最終回での種明かしの多くに付いてゆけなかった。物語の最初の方を忘れてしまったので、どの過去の世界の誰が誰と同一人で、どの未来の誰が誰と同一であったか、説明されても感動が無いのである。それでもとにかく登場人物が魅力的だ。そしてその魅力は、この、誰が誰やらのこんがらがり具合から生じてるのだと思う。きっと単行本化されるだろう。装丁がきれいなら、改めて買って読んで、この点を検証したい。