十年前の「ユリイカ」4月号を見つけた

 昨年から文芸誌を読み始めて気がついたのは、私の複数性と世界の複数性を扱った作品が多いことだった。もちろんこれは文学史上初という事態ではない。十年前の「ユリイカ」四月号が「多重人格と文学」という特集を組んでいるのを見つけた。大塚英志香山リカが対談していて、題がまさに「複数化する 「私」、微分化する世界」だった。昔はほとんどいなかった多重人格が最近は増えている、と話してる。大塚の解釈は、それって「ビリー・ミリガン」が流行ったからでしょ、とにべもない。他の記事を読むと、昔から多重人格はあり、最近それに医者が気づくようになったから、患者が増えたのだろう、とある。
 いろいろまだちゃんと読み切っていない。今と比べて何か違うという感触はあった。一言で言うと、自分が複数あるのは異常事態である、と見なしてる雰囲気だ。そんな中で、ひとり、「人格とは本来、多重のものである」なんて書きだす作家がいて、さすがそれは古井由吉だった。「顔は前へ」という短い随筆だ。昔の人はたくさんの顔を使い分けていたのではないか、そんな風に考える。

 それにひきかえ近代の人間にあっては、人生の役割は平均して単相になり軽量になり、人格統一の要請も厳しくなくなったそのかわりに、人格の形成および維持は個人にゆだねられる。それでもいささかは多重の役割を努めて果たしながら、自分は一体、何者なのか、とつぶやくのが近代人である。そしてそうつぶやく時をむしろ、わずかに我に返った時と感じるようなら、これはよほど追い込まれている。

 すなわち、「人格の多重性が喪われかける時、多重人格の現象は露われかかるのではないか」。平野啓一郎『ドーン』について私がメモしたことを思い出した。あの小説で、ひとつの顔だけを使うよう強いられた状況の中で人は調子を狂わせていくのだった。もっとも、古井はこうも付け加えている、「一人の人間の内に多数の異なった人間が潜むという考え方は、私はこれを敬して遠ざける」。そう、私の複数性は多重人格の問題とは微妙に異なるはずだ。