佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』第一夜

 あまりに分厚くて佐々木中の『夜戦と永遠』も小熊英二のいろいろも読めずに積んだままでいる。あーあ、と思っているところに佐々木は『切りとれ、あの祈る手を』を出してくれた。普通の厚さだ。五夜にわたるインタヴューである。題名はツェラン『光輝強迫』から採ったとのこと。飯吉光夫訳『迫る光』から探した。「祈りの手をたちきれ」に違いない。
  祈りの手を
  目の
  鋏で
  宙
  から
  たちきれ、
  その指を
  おまえのくちづけで
  きりとれ
  組みあわされたままのものがいま
  息を奪うようにすすんでいく。
 第一夜は読書について。ルターが引用されている、「本は少なく読め」。本来の読書とはこわいものだ。だから読んでも忘れてしまう。無意識がこわいものを忘れさせるのだ。で、読み直す。また忘れ、もう一度読む。ついには体が一字一句を覚えてしまうほどに。「繰り返し読むということは、まともに受け止めるしかなくなるということです。そしてそのように生きるしかなくなるということでもある」。もちろん、読みやすい本、わかりやすい本を大量に読み飛ばしてもこうした意味の読書にはならない。そんな本はこわいものを何も含んでないから読みやすくわかりやすいのだ。
 著者は、そんな読書を生きてきた、と回想する。若い頃に彼は情報を漁るのをやめた。そんなことした理由には現代思想や現代批評への嫌悪がある。つまり、すべてを知り、それについてコメントでき、「それによってメタレヴェルに立ち、自らの優位性を示そうとすること」への嫌悪である。こうして著者は物を知らない愚か者になった。情報を持たぬ者は、自分の正しさを判断できぬ、みっともない者でもある。「しかし、私はそれを選んだ」。
 ここまで話しつつ、彼には自分の語りに違和感をおぼえる。「……おかしいですね。何だか決然としているように響いてしまうような。繰り返しますが、これはちっとも格好良くない。専門家からは馬鹿にされるし、批評家からも馬鹿にされるわけです」。いやいや、と私は思う。充分格好良い。私はこんな風に生きたかった。それに、第一夜を読んだ人はわかるだろう、著者はニーチェラカンドゥルーズ、ルター、フロイト、ウルフ、について語る。グルーンヴェーデルなんて知っている。充分物知りだ。
 格好良くなってしまう理由は明らかだ。佐々木の生き方はこないだ読んだ宮台真司の言うダンディズムだからである。そして、現代思想にも批評にも無縁のダンディを目指しながら実際は物知りになってしまうあたりも、たぶん、宮台の言うダンディズムの不可能性と関係があるだろう。第一夜の読書論はまったく正しいと私は思う。ただ、それを格好良さや物知りに背を向けるダンディズムとして語るから、彼自身にも感じられる違和感を招くのだ。