十一年前の江藤淳追悼特集を読んだ

 あれ?っと、今年になってから思い出した。昨年は江藤淳没後十年だったのでは。主要文芸誌にその種の記事を見た記憶が無い。いまさら悲しくなって、亡くなった当時の「新潮」「群像」「文学界」といった追悼特集を読んだ。晩年だけでなく若い頃のエピソードもたくさん紹介されていた。桶谷秀昭によると、大学院生だった頃は西脇順三郎にいぢめられた。教室に江藤を見つけると西脇は、「あ、今日は江藤君がいるから授業やめにしよう」とか言って帰ってしまったそうだ。
 内藤克人によると、一九九七年には公正取引委員会の会議に熱心だった。規制緩和が叫ばれた頃で、書籍と雑誌の再販制度も廃止されそうだった。抵抗したのが江藤だった。この激論のため「決定的に身体を損なっていた」と『妻と私』にある。どんな発言をしていたのか。

 (自分の)著書が値引きされて売られるくらいなら、出さないほうがいい、そういう著作者の感情は、合理的な競争政策理論あるいは競争法の立場からは児戯に類するものかもしれないが、(そもそも)著作者は著作物が物品化されて市場で売られるということに恥じらいというものをもっているものだ。にもかかわらず、そうしているのは、そうしなければ暮らせないからである。著作権法上、財産権も非常に大きな問題であり、印税など金銭的な問題が絡んでくるが、その恥ずかしさに耐えているのは著作人格権の一身専属制が明記され、保障されているというところがあるからである。(「議事概要」)

 現在はもちろんおそらく当時においても「著作者」から「恥じらい」は失われていたろう。売文に恥じらいを感じるような人がひとり消えた、というのが彼の死の一番の意味であると思った。ゼロ年代は恥知らずの時代と言えようか。柄谷行人の発言も引用しておく。

 狭義の文学批評は難しいですね。実際の作品がないと、ね。たとえば、『作家は行動する』に引用されている作家の作品は、武田泰淳でも石川淳でも坂口安吾でも、今でも大きいですからね。いま、あのような作品がそばにありますか(笑)。

 (笑)が余計だと思う。私がいちばん共感をもてる江藤論は大塚英志だ。『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』(2001)や『サブカルチャー文学論』(2004)を読んだことが、いまだに江藤淳が気になる原因だ。大塚が論じたのは、武田泰淳石川淳坂口安吾を扱っていた高級店が田中康夫を売り出してしまう崩壊ぶりであった。とても笑えない。