柄谷行人『世界史の構造』(3)「第二部第一章第二章」

 第二部では交換様式BとCが論じられる。「略取と再分配」と「商品交換」だ。両者は不可分だ。それでもひとまづ、前者については国家の発生、後者については貨幣の発生として、分けて説明される。
 交換様式Aによって結びついた共同体がまとまってもそれは国家ではない。互いの交易の場として都市が誕生する。そこに国家の発生がある。そして、ひとつの都市それ自体が発展して国家に成長するのではない。都市間の抗争が国家を生む。たとえば、他の都市や国家の脅威に対抗するために、ひとつの都市は都市国家に育つ。あるいは、他の都市国家服従させながら本格的に国家は成長する。共同体の間に上下の関係が生じ、したがって、互いに平等で独立した共同体間の交換様式Aの時代は終わる。
 国家は法によって交換様式A「互酬」を禁止する。柄谷行人ハムラビ法典の「目には目を」を例に挙げた。互酬社会では、人を傷つけた場合、その「返礼」があり、返礼には返礼があり、以下、相手が死ぬまで互酬は延々と続く。この連鎖を一回で断ち切るのが「目には目を」という法だ。目という商品を交換し合う商品交換すなわち交換様式Cの萌芽さえ、私には感じられる。
 商品交換は共同体間で行われるものだ。それが都市、さらには国家の誕生を促す。また、国家の法は商品交換の不正を処罰し、共同体間の信用は交易を容易にする。法は交換様式Bに、信用は交換様式Aにもとづく。そして、国家も共同体も商品交換なしでは立ち行かない。つまり、商品交換は交換様式ABと連動している。商品交換において、やがて、ある商品、たとえば貴金属が貨幣として使われるようになる。貨幣は国家が作る。交換様式ABCは密接な関係にあるわけだ。
 貨幣が財の蓄積を招くのは(2)で書いた。投機によってそれはさらに増える。たとえば、危険な旅を重ねて東方で安く買った商品を西方で高く売る。あるいは、そうした事業者に資金を貸すことで利子を得る。こうした剰余価値を得る商人や高利貸は古くから軽蔑されてきた。それは交換様式Cが交換様式ABを脅かすからだ。たとえば、高利貸は古くからの有力者の土地を奪うことができる。そのため、国家や共同体に忌み嫌われることになる。とはいえ、確認しておけば、交換様式Cが交換様式Bに優越することは無い。対立しながらも国家を必要とするからである。
 感想。金貸し資本については『トランスクリティーク』(2001)でさえ、詳しく論じられてなかったのではないか。そのため、従来の柄谷のマルクス経済論では、現代社会のマネーゲームは扱えないと思う。だから、『世界史の構造』で利子が説明された箇所には驚いた。貨幣の発生は『マルクスその可能性の中心』(1978)以来、何度も柄谷行人が説明してきたことである。特に彼が主張したのは、価値が交換の後に生じることだった。『世界史の構造』ではもうそこに力点は無い。いま見つけられず残念だが、あるとき、柄谷は金本位制について述べたことがある。記憶で書くと、「現在は廃止されたようでも、実際の世界経済は金本位制で動いている。ドルの強さはアメリカの金保有量あってのものだ」。『世界史の構造』の今回の箇所を読んで、意味がたぶんわかった。貨幣は国家が作るものだが、勝手に作るわけにはいかないのだ。商品交換において交換できる商品でなければ貨幣にならないのである。そして、何が商品になるかは国家が決めるわけにはいかない。それは交換様式Cの領分だ。相変わらず金が重要な商品である以上、国家が金本位制を廃止しても、それはうわべだけの廃止なのである。追記。『世界共和国へ』(2006)に「商人資本と金貸し資本」という節があった。『世界史の構造』の説明はそれを踏襲している。