江藤淳『夏目漱石』冒頭

 吉本隆明との対談で古井由吉江藤淳について、こんなことを言っている。「江藤さんの漱石追究も、最初にこれが小説といえるんだろうかっていう疑念を踏まえていると思います。そこがすぐれたところだと思います。で、なおかつ小説だと解き明かすところが」(『小説家の帰還』1993所収)。これを読んですぐ思い出す江藤淳漱石論は『夏目漱石』(1956)の冒頭である。

 日本の作家について論じようという時、ぼくらはある種の特別な困難を感じないわけには行かない。西欧の作家達は堅固な土台を持っている。ぼくらはその上に建っている建物のみを、あるいはその建物の陰にいる大工のみを論ずればよい。つまりこれは、これが果たして文学だろうか? などという余計な取越苦労をしないでも済むといった程度の意味である。

 私も優れていると思う。小説を読む者は、「これが果たして文学だろうか?」とは普通考えない。それを考えるのが、しかし、批評家である、と江藤は教えてくれた。この一句が無ければ柄谷行人も生まれなかったろう。気になるのは、江藤より前にこんな発想を持った人はいるのだろうか、である。

 イギリス人やフランス人のあいだでは、歴史をどう書くかについて一般的な合意があって、歴史が国民の一般教養の上になりたっているといえるが、ドイツ人の場合には、各自がてんでんばらばらなため、歴史を書くことに力をそそぐ以前に、歴史をどう書くか、その方針を確立するのにいつも苦心惨憺するのです。

 ヘーゲル『歴史哲学講義』(長谷川訳)である。この「歴史」を「小説」に、「ドイツ人」を「日本人」に変換すると、『夏目漱石』の冒頭と非常によく似たものになる、と私は思う。それがどうしたと問われると、どうもしない気もするけど、たとえば、ヘーゲルの講ずるギリシャ世界って、江藤の読む『坊っちゃん』に似てない?とか十数年前の私は思ったものでした。