十年前の「群像」1月号を読んだ。

  李恢成「地上生活者」の連載第一回が載っていた。三浦雅士「青春の終焉」も連載第一回だ。さて、十年後の「群像」一月号と比べよう。「地上生活者」はまだ連載中である。書き続けた人よりも、読み続けた人を誉めたたえたい。いればの話だが。そして、三浦は新連載を始めている。「孤独の発明」で、最初のテーマは「小林秀雄柳田国男」だ。
 十年前にもどる。樋口覚三島由紀夫武田泰淳」があった。由紀夫と泰淳が対談では「文武両道」と「諸行無常」の異なる立場を互いに際立たせながらも、「互いの小説の主題の奪回や、批評の応酬において共通するものを多くもっていた」と述べている。
 話はぜんぜん変わるが、デーブ・スペクターはシカゴの日本語学校に六年通って首席で卒業したのだとか。昨日の「読売新聞」に載っていた。日本語弁論大会で優勝した時の草稿が写真になっている。テーマは「三島由紀夫の生涯と自殺」だ。「あの有名なそして多くの問題作をのこした作家が切腹をしたのです。この人の生涯と作品から私達は多くのことを学ぶことができると思います。もし現代日本の若者がいや全世界の若者といっても良いと思いますが、三島由紀夫が再現しようとしたいわゆる大和魂というものを理解する事が出来たならば、私達の人生はそれが以下に(ママ、「如何に」の誤か)堪え難いものであろうとも、もっと充実した生きがいのあるものとなるに違いないと思います。」。アメリカ人の右翼って初めてだ。赤尾敏に感心されたそうだ。
 十年後の一月号にもどる。特集「戦後文学を読む」第二回は武田泰淳だ。なんか十年前と符合してる気がしてくる。他には大江健三郎の特別講演「「後期の仕事」の現場から」がある。実は十年前にも彼の講演「新しい日本人の普遍」が載っている。ちなみにこれは彼が自分の仕事ぶりを簡潔に説明してくれており便利である。ぜんぶで十二ページ。自分が戦後民主主義の申し子であること、その中で身につけた普遍主義が創作において四国という辺境を舞台に選ばせたこと、さらに、息子の音楽にも普遍主義が息づいていることを語る、その部分だけなら五ページである。
 それから、野間文芸新人賞が発表されていた。これもいまと変わらない。今回は村田沙耶香「ギンイロノウタ」だ。十年前は阿部和重無情の世界」と伊藤比呂美ラニーニャ」だった。翌月号の話もしておこう。阿部は東浩紀と対談しており、「インディヴィジュアル・プロジェクション」を無視しておいてこんな作品に賞をくれるなんて事態に腹が立つ、とか言っている。
 柄谷行人の選評を引用しよう。「阿部和重の『無情の世界』は、これまで読んだ彼の作品の中でも出来の悪いほうに属する。しかし、他の作品が通るぐらいなら、これに賞を与えるべきだ、と判断した。現在、どの文学賞の受賞作もひどく、選考委員もお粗末である。今の日本文学は、数多の賞で盛りたてて辛うじて存在するような疑似現実でしかない。阿部和重は大器である。大器はこのような文学賞に一喜一憂することなく、晩成すべし。文学作品が活きるかどうかはチャチな「文壇」が決めるのではない。後世を恐れよ。なお、私は今回で選考委員を辞める」。
 もう当時は文芸誌を読まなくなっていた私だが、これは読んだ気がする。デジャヴだろうか。いまと変わらないから違和感が無いのかもしれない。正確な記憶だったとしたら、なかなか上出来の一月号だったのに、こんなくだらないことしか覚えてないのが恥ずかしいもの。